水井 雅子

 ファンタジーの発祥の地はイギリスだし、質的にも量的にも世界はなかなかイギリスには追いついていないのですが、21世紀になってから日本にも、宮沢賢治以外に世界に紹介したいファンタジーが色々と出てきているのは嬉しい。
 作品の舞台は、日本の古代がそのモデルになっているらしいものやら、韓国だね?と言い当てたつもりになる作品、国籍不明で西洋風が東洋にミックスしたようなものから、中国を含むアジアがまとめて舞台となっているんじゃない?と思うようなものもあって、この「アジアンテースト」が、中々に彩り豊かではあるのですね。
 これが翻訳ものまで見ていくと、中国を舞台にしていることが明らかなものから、古代のインドかな?と思うような作品もあります。でもそこまで手を広げると、紹介したい理由が散漫になってしまうので、今日は日本発の作品に限ることにします。
 ファンタジーというジャンルの作品でありつつ、日本の作家たちの文章が、当たり前のことながら実に日本的なので、今日はそれを言いたいわけなのです。

「バルサ」シリーズ(上橋菜穂子) 最近、「面白いなあ」と思って読んでいるのが、上橋菜穂子氏の『精霊の守り人』を第一巻とする「バルサ」シリーズ(最近、更に外伝が出た)と菅野雪虫氏の『天山の巫女』(最近やっと三冊目が出た)。ファンタジーは、描かれている世界に魅力がないと、いくら着想が奇抜であったとしても、主人公たちが特異的であったとしても、物語の魅力は半減するのであって、一つの想像的世界が如何に作られ、語られているか、ということがキーポイントなんですね。面白いと思われる日本の作家が実はどれも女性で(宮沢賢治は別ですよ、彼は別格です)、一方、イギリスで面白いと思う作品の作家はどれも男性だという点が、不思議ですわ、本当に。
 日本のファンタジーの祖は、どう転んでもやはり宮沢賢治なのですが、現代では荻原規子氏の『空色勾玉』が最初の本格的ハイ・ファンタジーではないのかしら?と言っても、もう20年も前に出版された作品です。『白鳥異伝』『薄紅天女』へと続く、日本の古代を舞台にしたハイ・ファンタジーですが、彼女には『西の善き魔女』という実にカラフルなファンタジーもあるし、ヒロミを主人公にした洒脱な一連の物語(これもファンタジー、リアリズム両方あるんですよ)もあって、『空色勾玉』が出たときから注目してきたけれど、ますます上手になっています。
 21世紀前後から出てきた上橋菜穂子氏の「バルサ」シリーズは、テーマなどは一見ファンタジーには思えない設定ですけれど、バルサだけでなく彼女たちの生きる世界が一種独特で、しかも実に良く描かれているので、そこが面白い。やはりファンタジーですね、彼女の世界は。彼女はオーストラリアのアボリジニの研究家だということで、彼女の世界にはそれがあちこちに反映されているようには思います。

 「守り人」シリーズは是非、読んでいただくとして、まあ、大雑把に紹介すると、陰謀によって医者だった父を国に殺され、父の盟友に伴われて国を出て、国が差し向ける刺客を次々に倒し、用心棒稼業で糊口をしのぎながら逃げて歩く少女と父代わりとなった男の話で、これがめっぽう強い女用心棒になり、一人で流れ歩いて評判を取った辺りで物語が始まるわけですね。
 考えてみれば、8歳で国を出た少女が養父に鍛えられながら強くなるのは、父の仇をいつか討つため、というところなどは確かに日本の精神風土じゃないですか? でも、物語全体はむしろ乾いてサバサバとした風が吹いており、そこが大きな魅力でもあるわけなんですよ。だって、今やバルサは、30前後の化粧気がなく男物の上着を着た「短槍使いの名人」だし、また、助けることになる子供たちが皆、国の思惑やら駆け引きやらに利用されたり犠牲になったり、という殺伐とした硬いテーマですよ。舞台も何カ国にも亘るスケールの大きさなんですから。人間にはどうすることも出来ない「ナユグ」とかいう異世界も、人間の世界に接して存在するという設定ですし。手に汗にぎる冒険物語ですよ、実際。
 ところどころに主人公バルサの思い出とか思いが織り込まれ、その情緒が乾いた世界に微妙な湿気をもたらして、その辺りも快い語り口になっている、というわけで、実に上手いストーリーテラーなんですねえ。

 ずっと、描かれる世界やストーリーの面白さにばかり目が行っていたけれど、最近出た『流れ行く者』というバルサ外伝を読んで、「おや?」と思いました。やたら日本的な文章だなあ、と。つまり情景描写は、そのときの情況を客観的に示すために書かれているのではない、ということです。主人公の思いや情景をより理解しやすくするために挿入される情景描写である傾向が強いんですね。大変な情況の時には天候も悪く寒くなるし、これから明るい兆しが見えるときには天候などの条件も良い。しかもそれを読んでいる私たち読者が(というか私たち日本人のDNAが)反応する、郷愁に満ちた情景、どこか心の琴線に触れる情景を描き出しているわけです。実に巧みですねえ。これって文章でいえば藤沢周平、絵でいえば滝平二郎の世界じゃない?
 バラっとジグソーパズルのピースをぶちまけて、一つ一つはめていくと次第に世界が形を成していく、という客観的な情景描写をする作家もいる。トールキンはむしろ、こちら。客観的に語られる情景が目の前に繰り広げる世界は、読者の経験とかDNAとかには関係なく、微に入り細に入り描かれた線画の世界に色がつけられ、立体化していくような語り口です。そうやって語られて立ち上がった世界の美しさ、懐かしさ。知らなかった世界なのに、懐かしい。読み出すと止められない魅力があります。
 対照的に、彼女たちのような主観的文章は、作家の主観でありながら、読者にとっても一種のデジャビュのように、既に私たちの血やDNAが知っている、あるいは自ら知っていたはずの世界や情景を思い起こさせ、そちらへ意図的に誘導していく。自分が知っているはずの世界の入り口がひょいと開いてこちらを手まねきする感覚。ドキッとするし、心惹かれますよね。これ、日本的な文章の特徴でしょう? これも面白いと思いませんか? 読んでみたいと思うでしょう? 是非、読んでみて下さい。

 それにしても日本人は「真面目」なんですねえ。ユーモアはないです。彼女の作品に限らず、殆どの作家がユーモアの要素を入れようとしてくれていて、そういうところ好感は持つけれど、作者が面白いでしょ、と教えてくれている箇所、必ずしも読者が「思わずクスッとする」箇所になるとは限らない。そういう点、トールキンの『ホビットの冒険』などは、思わず「クスッ」「ニヤッ」とするところがあちこちにあったなあ。う〜ん。ファンタジーに次いで、今度はユーモアについても、うならせてほしいなあ。

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