書物との出会いと目覚めの後に  ――『バルザックと小さな中国のお針子』――

木梨 由利

『バルザックと小さな中国のお針子』表紙

 さて、今回はいつものイギリス文学の流れから離れて、フランス語で書かれた物語、『バルザックと小さな中国のお針子』をご紹介しましょう。20世紀末に発表されて以来、フランスで愛読されているのは言うまでもなく、世界30カ国語に翻訳されて、各国でベストセラーとなった作品です。

 とはいえ、物語の舞台はプロレタリア文化大革命(1966〜76)に揺れる中国です。1968年、17歳の「私」(馬剣鈴)は、高名な医者――資産階級であり、毛沢東体制下では人民の敵――の息子であるために、田舎で「再教育」を受けるべく、親元から引き離されて、山間の寒村へ送られます。目覚まし時計すら無い辺鄙な田舎で、彼は、山のてっぺんの畑まで肥桶を担いで運んだり、落盤の危険の高い炭鉱で石炭を集めたりする苛酷な労働に従事することになります。唯一幸いなのは、1歳上の親友、ルオ(羅)が一緒だということです。ルオは、高名な歯科医の息子で、「私」のようにヴァイオリンを弾いたりなどできませんが、機転が利くという武器があります。例えば「私」が(当時禁止されていた音楽である)モーツアルトの「ソナタ」とは何なのかの説明に窮していると、ルオは「『モーツアルトが毛主席を偲んで』ですよ」と、村長の怒りを巧みにそらしてしまいます。どちらかというときまじめな「私」と、いい加減なところもあるけれども臨機応変に行動できるルオは、助け合いながら困難に耐えていきます。ルオには、また、物語を語る才能があるために、二人は村長によって町へ送られて、そこで見てきた映画を村人たちに語って聞かせる語り部として重宝されるようになります。

 ところで、谷をはさんだ村には山でただ一人の仕立屋がいますが、彼の娘のお針子と二人は知り合いになります。日に焼けた肌と長いまつげ、「この地方で誰よりも美しい瞳」を持つ素朴な娘は近隣の若者たちの憧れの的ですが、次第に二人は親しくなり、とりわけルオは、彼女の恋人として仲を深めていきます。

 一方、同じく再教育のために送られてきていた少年が、禁書とされている西洋の小説を隠し持っているらしいことを知った二人は、あれこれ策を弄した末にその書物を手に入れます。フランスを中心に、英米やロシアの作家のものも含む作品群を、「私」は「それぞれの作家と恋に落ちるように」貪り読み、女性や恋愛や性の神秘に導かれ、あるいは人生の指針を見出したりします。とりわけロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』やデュマの『モンテ・クリスト伯』に夢中になり、その語りで仕立屋までも虜にしてしまう「私」に対して、ルオのお気に入りは『ユルシュール・ミルエ』、『ゴリオ爺さん』など、バルザックの作品です。ルオはまた、美しいけれども自然児のお針子に、バルザックの本を読み聞かせることで教養を身につけさせようともくろみ、険しい崖道を彼女の元へと通っていきます。

 ルオの母が病気になって、彼は一時的に帰郷することを許されます。留守中お針子を守って欲しいというルオの頼みを受けた「私」は、毎日彼女の家に通ってまめまめしく世話を焼き、また彼女に窮状を打明けられると、密かに救い出すべく奔走します。

 やがて、ルオが戻ってきて、三人の関係も元に戻るかと思われのですが、ルオによるお針子の教育は思いがけない結果をもたらしたことがわかるのです……。

 作者は中国人のダイ・シージエ(戴思杰、1954年〜)。自身、医師の両親のもとに生まれ、「再教育」を経験したものの、その後大学にも入学、1984年には国費でパリに留学しました。現在はその地で映画監督および小説家として活躍しています。本作品の「私」は作者自身ではなくても、多くのつらい伝記的事実に基づいていると考えられます。けれどもそれぞれのエピソードは決して重苦しい印象を与えません。時にはユーモアさえ込めて軽やかに描いている筆致からは、懸命に闘った時代へのいとおしみさえ感じられるように思われます。

 2003年に日本でも公開されたフランス映画『小さな中国のお針子』はダイ・シージエ自身が脚本家兼監督として完成したものです。映画の宿命として、改変や削除をされた部分も少なくはなく、何よりも「現代」の物語を付け加えたために、原作とは異なった印象を与える部分もありますが、それでも原作が伝えるメッセージは変わることなく、美しく情感溢れる作品になっています。

 厳しく統制された毛体制の時代、文明とは無縁の辺鄙な土地での物語は、自由や物質的豊かさを存分に享受できる現代日本の若者にとってはいささか異様に思われるかもしれません。けれども、限られた書物に喜びを見出して生きる青年たちのひたむきさ、胸のときめき、そして挫折のほろ苦さなどは、国が変わり、時代が移ってもきっと多くの読者の深い共感を呼ぶものと思われます。ぜひとも手にとっていただきたい一冊です。

 

参考図書:ダイ・シージエ(著)新島進(訳)『バルザックと小さな中国のお針子』早川書房 2002年.

映像資料:『小さな中国のお針子』(DVD) 監督・脚本:ダイ・シージエ 出演:ジョウ・シュン、チュン・コン、リィウ・イエ 他 販売元:バンド 2003年.

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