『ホビットの冒険』−世界で初めての本格的ファンタジー

水井 雅子

 ミレニアムと騒がれた20世紀末からこのかた、ファンタジーの作品が次々と出版されている。半分は純然たる興味からトールキン以外の本にも目を向ける私であるが、全てに目を通す間もないほど、出版界はファンタジーのオンパレードである。しかし、このファンタジーという文学ジャンルを確立したのは、今から半世紀以上も前、イギリスのオックスフォード大学の名物教授だったJ.R.R.トールキン(1892-1973)である。先鞭をつけた作品が『ホビットの冒険―生きて帰りし物語』(1937)であった。この本は出版された当初こそ、爆発的な人気を呼んだわけではなかったのであるが、次第に読者を増やし、その後17年たって、「ホビットの続き」として待ちに待たれた『指輪物語』三部作(1954-56)が出版された時の反応は、一種凄まじいものであった。一大ベストセラーになっただけではない。賛否両論取り混ぜての批評が次々と書かれ、余りの売れ行きに海賊版が出され、それを廻って不買運動が起こり、海賊版を出していた会社が謝罪して回収する等々、20世紀末に『ハリー・ポッター』が出版されて世界各地の子ども達がこの物語を買うために列を作ったとき以上の騒ぎであった。

 面白いのは、熱狂的に人気を博したのが、本国のイギリスよりもアメリカの方が早かったことである。先ずはアメリカから起った熱狂的な波が世界の若者を席巻したかのような騒ぎだった。当時はファンタジーという文学ジャンルも確立しておらず、この手の本はどの本棚に並べたら良いのか本屋で困った、というエピソードも時代を感じさせる。空想という意味である「ファンタジー」を、空想的作品という一つのジャンルを表す意味で最初に使ったのも他ならぬトールキンだった(もっとも、一つの文学をファンタジーと呼ぶために、彼は様々な条件をつけたけれど)。

 ここ何十年もの間、彼の作品がファンタジー文学の試金石となってきたのである。2001年には、『指輪物語』を本格的に映画化した『ロード・オブ・ザ・リングズ』が日本にも上陸した。余りに長編なため映画も3部作とならざるを得なかったが、現代最新の技術を駆使してこそ、このファンタジー作品の映画化が可能になった。映画を見て初めて、50年も前に書かれたこの作品の力強い構成や抜きん出た面白さに驚いた人も多いことだろう。

 そこで是非読んでみてほしいのが、トールキンが最初に出したファンタジー、『ホビットの冒険』(1937)である。ホビット族の一人が否応無く巻き込まれてしまった「竜退治の旅」がテーマの、言わば「道中もの」である。物語の背景を考えると、時代的には『指輪物語』の前章的物語とも言えるが、トールキン独特のユーモアや、突き抜けた明るさは『指輪物語』には見られないものである。この作品を貫く不思議な明るさ。主人公の、平凡さを正統的に貫き通すその非凡さ。児童文学としては『指輪物語』よりも上に置きたい。しかも、この作品が本当の意味で、世界で最初の本格的ファンタジーなのである。
 主人公たちが生きる想像の世界が見事に創りだされているだけではない。生き生きと活躍する登場人物たち一人一人には思わず親近感を抱いて肩入れしたくなり、拍手したり、一緒に残念がったりする気持ちにさせられる、という貴重な本でもある。彼らのかもし出す滑稽さには何度もニヤッとさせられ、彼らが遭遇する冒険には読者も思わずハラハラさせられ、しかもその驚きに満ちた世界は憧れるほど美しく素朴で、時に危険に満ちている。読み終わった後は「ああ、面白かった」と思いながら、終わってしまったのが残念に思われる本。もう一度最初から読み返して、主人公たちの一挙手一投足をじっくりと楽しみたい、と思わせる本。上等なユーモアは何度味わっても新鮮味を失わないということも、この本を読んでみると実感できる。本を読む楽しみを心行くまで堪能させてくれる作品というのは、こういう作品をいうのである。こういう本に出会う、ということ自体が本当に幸せなことなのである。

 

『ホビットの冒険』は瀬田貞二訳(岩波書店)のものがお勧め。岩波少年文庫から文庫本も出ている。

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