ある執事の回想 ―『日の名残り』―

木梨 由利

 書を紐解き、じっくり思索にふけるのにふさわしい秋がまた巡ってきました。今回は、晩年、いわば人生の秋にある人物を主人公としたイギリス小説、『日の名残り』(The Remains of the Day, 1989)をご紹介しましょう。

 主人公のミスター・スティーブンスは、ダーリントン・ホールと呼ばれる由緒ある屋敷の執事です。執事という言葉は聞き慣れないかも知れませんが、大きな屋敷で、大勢の使用人を統括して、屋敷内の万事が滞りなく運営されるように図る総責任者のこととでも言ったらいいでしょうか。物語の「現在」は1956年夏。スティーブンスは休暇をかねて、車でイギリス西部に旅します。アメリカ人の手に渡った屋敷での人手不足に悩み、20年前に結婚退職したかつての女中頭ミス・ケントンに会って、復職の可能性を探るのが目的です。物語は、6日間に渡る旅の様子と、二つの大戦のはざまに起きたできごとを、スティーブンス自身が語る形で進められています。

 屋敷の元の所有者で、スティーブンスが35年間仕えてきたダーリントン卿は、高潔な人格者で、私人としてではあっても政界にも少なからず影響を与えていました。第一次大戦後のドイツの困窮をみかねた彼が、友好の手を差しのべようと各国の要人に呼びかけるために、屋敷で国際会議を開催した時、執事としてその場に立ち会ったことをスティーブンスは誇らしく思い出します。けれども、やがてヒトラーが台頭し、第二次世界大戦が勃発するにいたった時、卿はナチスの擁護者として弾劾されることになるのです。スティーブンスが、理想的な執事の資質として「私見を述べぬこと」を繰り返し挙げている背景には、主人が危険な方向に流されていることに薄々気づきながら、黙視してきた自分自身への反省や無意識の自己弁護があるとも解釈されるのです。

 ミス・ケントンとの思い出にも、いくらかのほろ苦さが伴っています。有能で仕事の上での得がたいパートナーであった彼女が、個人的にも自分に好意を抱いてくれていることを察知する機会は多々あったはずなのに、鈍感さからか、不器用さからか、あるいは、職務の遂行を最優先するからか、彼女の気持ちに答えることはありません。彼女がそんな彼へのあてつけで他の男性と付き合い始めたのが発端で、屋敷を去ってしまって初めて、彼女が自分にとっていかに大切な人であったかを認めるのです。

 物語は終始淡々と語り進められます。けれどもそこには大きな問題がいくつも散りばめられています。戦争に巻き込まれていくヨーロッパの歴史、善意の個人の力の限界、戦後の社会の変化、民主主義の理想とその弱点、イギリス人とアメリカ人の気質上の違いなど。そして、反復される、「偉大な執事とは?」、「人間の品格とは?」という問い。ここに提示されているのは、生の根幹に関わるテーマでしょう。偉大な執事の条件にこだわり、過去の栄光をよりどころに生きるスティーブンスの姿が、時に欺瞞的に、時に滑稽に見えるとしても、最後に私たちの心に刻まれるのは、人生の残照を眺めながら、新しい環境の中で前向きに生きていこうとする人間のひたむきな姿でしょう。

 ジェイムズ・アイボリー監督の同名の映画(1993)も高い評価を受けています。二人の主人公を演ずるアンソニー・ホプキンズとエマ・トンプソンは、わずかな身振りや微妙な表情の変化だけで感情の動きを見事に表現していて、言葉に出せない思慕の情や哀しみがひしひしと伝わってきます。イギリス有数のカントリー・ハウス(田舎にある大邸宅)4ヶ所を借りて撮影したというダーリントン・ホールの様子は、18世紀や19世紀の家具調度や美術品で目を楽しませ、「古き良き時代」の貴族の生活ぶりを理解しやすくしてくれます。

 作者カズオ・イシグロは、現代イギリスを代表する小説家の一人ですが、日本人として生まれ、5歳まで日本で過ごしました。最初の2編の長編小説は日本を舞台にしています。二作目の『浮世の画家』(An Artist of the Floating World, 1986)では、主人公の画家が、第二次世界大戦をはさむ自分の過去と現在を自ら語るという形式をとっていて、意図せず戦争の加担者になっていく個人を描くという点でも、『日の名残り』と相通じるところがあり、合わせ読むとさらに興味深いことでしょう。

テキスト
カズオ・イシグロ(著) 土屋政雄(訳) 『日の名残り』 (早川書房、2001).
Kazuo Ishiguro, The Remains of the Day (Faber and Faber, 1989).
カズオ・イシグロ(著) 飛田茂雄(訳) 『浮世の画家』 (中央公論社、1992).
Kazuo Ishiguro, An Artist of the Floating World, (Faber and Faber, 1986).
DVD
『日の名残り』(The Remains of the Day、1993)(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント).

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