槻木 裕

 はじめて教壇に立ったときから、「哲学の授業をなんとかおもしろいものにしたい」とずっと思い続けてきたような気がするが、これがなかなかどころか、ほんとうにむずかしい。おそらく学生さんには一生に一度の哲学の講義であって、せっかく哲学を選択してくれた彼らに、せめて哲学の何たるか、その性格の一端だけでも伝えなければ、と思うから、どうしても選ぶテーマが普遍(universal)だの心身問題だのオーソドックスなものになりがちで、いきおい話もこみいったことになってしまう。

 かなり前のことだが、同僚の数学の先生が「猿でもわかる哲学の授業をやれ」と僕にのたまった。彼はしかし「犬でもわかる数学の授業」をやっているのかしら。「ワン(one)」ぐらいなら犬にもわかりそうなものだが、それで数学がわかるはずもない。でも、きっと彼は学生たちに、授業中に立って歩かず「待て!」と教えこみ、「お手」と示して、世の中に5より大きい数がないとしたらどうか、5進法で考えるとどうなるか、とか、そんなことで彼らの頭の調教をやっているのであろう。

 さてさて、そんなむずかしい要求がまだ生きていたせいか、本屋で漫画やイラストを用いた哲学の本をふらふらっと買った。西田幾多郎とヘーゲルの本で、僕にはよく分からないことを言っている哲学者たちだ。ついでにカントのも買った。開いて10頁ほどはイラストで楽しいが、かなり知識をもっていないと、なかなかついていけない。あっけなく、またも沈没。僕が彼らの前では猿でしかないことの間接証明とあい成った。

ミッシング・リンクの哲学者、出現!

 ちょっと大げさな言い方だが、僕にはヘーゲル哲学が鬼門で、西田哲学は新しく加わった鬼門だ。わからなくたっていいや、ぐらいに長年思ってきたのだが、やはりわかるに越したことはなく、せめてその哲学に対して類人猿ぐらいでありたいと長らく思い続けてきた。そんな僕のところに、F.W.ブラッドリーという19世紀後半から20世紀の前半にかけて活躍したイギリスの哲学者が、にわかにリアリティをましてとび込んできたのだ。1年ほど前から「この哲学者は、僕が猿から類人猿に進化するための鍵をにぎる哲学者である」と、まるで進化のミッシング・リンク(missing link)を発見したような不思議な邂逅の悦びを噛みしめながら、ダダーッと彼の分厚い本を読み進んだ。なぜ彼に目を向けたのか、その一部は今度出る紀要で報告するが、要するに、年代順に並べると、

「ヘーゲル → ブラッドリー → 西田」
と続く一元論的観念論哲学の系譜があるのだが、弁証法に対する態度からすると、
「ヘーゲル → 西田 ⇔(対立) ブラッドリー → ラッセル・論理実証主義」
と並び替えられて、分岐点としてのブラッドリーの哲学が浮かびあがるという寸法だ。

 だが、胸算用は胸算用。現在は少し落ちついて、丹念にブラッドリーの著述をノートにしたためている。どういうように「分岐点としてのブラッドリー」を浮かびあがらせるか、こいつがむずかしい。やりながら、もっとも効果的な叙述の仕方をゆっくり考えることにしよう。

 それで、いま自戒がてらに思っていることは、ブラッドリーの考えは僕には「類人猿の哲学」であって、これをものにすれば、猿の哲学が今より少しはわかるようになるのだろうが、やはり類人猿(ape)は猿ではないのであって、僕にはやはりヘーゲルや西田のものは「猿にはわからない哲学」にとどまるだろうとの予感である。理屈の上ではいくつもあるミッシング・リンクの探求は、御多分にもれずミステリアスだしエキサイティングだ。だが当分は、埋もれていたブラッドリーというこのミッシング・リンクを「ミッシング」ではなくなるように発掘に努めようと思っている。
 猿が猿であり続け、人間が人間であり続けることは、生物学的にたまたまそう生れたということが否定できない事実である限り、何の造作もなくできることだが、それだけに、猿でないものが猿になることや猿のことがわかること、人間でないものが人間になったり人間のことがわかることは、むずかしい―「猿さん、これ、わかる?」―アカン、また、自分でもようわからんことを言ってしまって、講義の悪い癖が出てしもうた……。

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