自分史を読む(2)

 Nさん(1924年生)は、石川県有数の企業T社に36年間(昭和23年〜昭和59年)勤務された方である。古希(70歳)を機に、自分史を出された。

 自分史は、幼少の頃の思い出に始まり、氏の成長段階に沿って記述されている。尋常小学校卒業後、郷土の実業家安宅弥吉の興した安宅産業(大阪)で3年間の丁稚奉公を終え、その後安宅弥吉から給付された学資金で5年間の修学時代を過ごす。次に、戦争。満州に渡り、ついにはソ連抑留となる体験が綴られている。自分史の冒頭、「はじめに」の文章は「ロシヤに抑留されたままの我々関東軍の部隊は」と始まる。帰国後、昭和23年にT社へ入社し36年間勤務される。自分史では、Nさんの「日記」をもとにサラリーマン生活の日々が年ごとにまとめられている。昭和30年〜昭和34年を記述した章が「出張から出張の日々」となっているのが印象深い。昭和30年代、年間150日の出張をこなされている。氏は、紛れもない「企業戦士」であった。そして、その家庭を守られたのは専業主婦の奥さんであろう。氏の自分史から「右肩上がり」の戦後の日本経済、T社が繊維機械メーカー故にこうむる好・不況の波、そして、「右肩上がり」のNさんご一家の生活をうかがい知ることが出来る。

 Nさんの大恩人(Nさんの人柄を知るためのキーパーソン)は、5年間の修学時代を可能としてくれた郷土の実業家、安宅弥吉である。安宅弥吉は、丁稚奉公を終え進学するNさんに「禅をくめ、禅をくまねば人間大成せぬぞ」言って送り出す。(この安宅弥吉が、禅の思想家、鈴木大拙と親交のあったことは有名なことである。)Nさんと安宅弥吉との出会いは、Nさんの後年の人生に二つの意味をもたらす。

 一つは、50歳を過ぎて禅への関心を深め鈴木大拙の著書、そして、道元『正法眼蔵』と読みすすんだということ(このことは、多分、Nさんの人生観に影響を及ぼしていることであろう)。もう一つは、低開発国の貧しい子供らへの学資援助である。氏は、タイ、インドネシヤ、カンボジアなどの子らの「里親」となり、2005年には、ネパールに小学校を建設した。

 Nさんの人生にとってもう一つ忘れてはならない「出来事」がある。それは、「戦争」体験である。先にも触れたように、氏の自分史の「はじめに」は、ロシヤ抑留への言及であり、22,3歳の若者であった著者が当時、何を思ったかの回想である。「自分の意思でもないのに、眼に見えない何かの力で、われわれは、ここソ連にいる。どうしてだろうか。」「このままでは、どうしても、ここで死ぬわけにはいかない。自分がこの世に生きていたという、何かを残して死にたいものだ。」その時、Nさんは、日本に帰れたら日記を書くことを決意する。また、Nさんは、なぜ、あの戦争は起こったのか、なぜわれわれは抑留させられたのかという思いを戦後ずっと持ち続けておられた。1998年、74歳の時、『戦争の真実』という渾身の一作を公刊されている。それは、自らの体験と各種資料に裏付けられた太平洋戦争に関する著である。

 私は、随分と以前にNさんの自分史を石川県立図書館で見つけ、読了後是非一度お会いして話を伺いたいと思っていた。後年、偶然Nさん夫妻をお見かけし、こちらから声を掛けさせてもらった。一度お話を伺いたいと申し出をして、快く了承を頂いたにもかかわらず、私の方の準備不足がたたり未だにその事が実現していない。その事を申し訳ないと思いつつ、今はNさんの御著書に目を通すばかりである。

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