かわいい子は人間文化の旅をする

槻木 裕

 四月だ。何もこの月に限らないのだが、文学部の教員の一人として、学生に対する対応の仕方をめぐり、ちょっとしたジレンマをこのごろ感じているように思う。

 (α)高校まで維持してきた生活のリズムを大学生になったゆえに崩し、せっかくいい才能をもっているのに、休みがちになり、とうとう退学するという学生を見るにつけ、教員として、そうさせてはならじと思う。

 (β)特に文学部の学生だもの、多少とも羽目を外すのは当然でしょう。決められたレールの上を安全走行して、何が文学部の学生ですか。危なっかしいところを綱渡り ―それでこそ、人間というものが少しは解かり、人間学や文学をやる資格があるってもんだ。昔から言うだろう、「かわいい子には旅をさせろ」って。

 (α)は教員として当然学生に注意すべきことなんだが、あまり強く干渉すると、何だか管理教育推進派のようでもある。「大学生とは、少なくとも精神的にはもう一人前の人格。すべて自己責任。その自覚をもつのが大学生」とは、入学式やオリエンテーションでのお決まりの訓示であるし、僕もそう思うから、本音としては(β)なんだが、「そこを何とか、ケアしろ」というわけだ。

 けれど、そう言われても、学生時代から長らく(β)を身上に文学部に籍をおいてきた者としては、おとなしく「ハイ、ハイ」とそれを受け入れることがなかなかできない。そうかといって、「かわいい子よ、旅をしろ」と、本人が旅をするのを嫌がっているのに、無理やり旅することを強要しても、それも干渉主義( paternalim )だ。で、どっちにもパターナリズムの危険があるのだが、どっちにすると訊ねられたら、僕はまだしも(β)を選びたい。

 この前、授業中に恋人はいるか?という話になって、一人ひとりに尋ねていったら、ある学生が「恋愛したことがない」とのたまった。「はあ? 20 歳近くになって、いままで異性を好きになったり、恋焦がれたりしたことがないとは、何という文学部生だ」と内心驚いて、ついつい「へえーっ、君はほんとに文学部か?」と言わなくてもいいことまで言ってしまった。さらにパターナリズムの追いうちの一言「あーん、何でもいいから、恋愛ぐらいしろよ」。

 自己分析すると、僕はまだ文学部生というのは、どこか無頼(ぶらい)の趣があってしかるべきだという、今や「懐旧の」と言っていいイメージをもって学生に接しているらしい。だが、「懐旧の」は卑下しすぎかもしれない。だって、恋愛だの失恋だの、あるいは人生を語って論争相手にこてんぱんに論破され、ヨーシ、少し本を読んで今度は逆に相手をやっつけてやろうと思わなかったら、何で思想だの、心理学だの文学論だのをやる必然性が感じられるのか、よく解からない。自分でもまだ理解しえていない(他人の)考えを武器に、のるかそるかの議論を展開するのが学生の特権だし、それが「知的放浪の旅」と今も僕は思っているのだ(ナマの他人との触れ合いのなかで、ものがようやく見えてくる)。

 だから、大きなテーマに挑んで、考えがまとまらないとイラつく学生の方が可愛い。小器用に人さまの書いたものをそのまま写した「優」よりも、自分のことばを模索しているのが如実にわかる「良」の方がはるかにましだ。人間学は旅だ。そこでは必ずあてどない思いを味わわなければならないだろうから、そんな放浪のロマンを感じさせる学生に、ことのほか共感を抱く。

 しかしまあ、僕も教師だ。大学生になった解放感に浸るあまり、生活のリズムまで崩すと、名実ともに無頼の学生になって、ついには退学ということになりかねないから、その点は気をつけろよ、と管理教育にならない程度に言いたい。

 あ〜あ、やっぱり、ジレンマ! まあ、何でもいいや、言いたいことは「文学部の可愛い子は、人間文化の迷宮に迷い込む」だ。これは事実判断。「放浪の旅人さんたち、僕らもこの通りいまだに迷っているんだから、自信をもって迷ってよ」とやると、パターナリズムくさい当為判断になるが、これくらいならいいいだろう?

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