自分史を読む

中西 茂行

 高校時代に(ひょっとしたら中学時代に)何かの授業で「自分史」を書いた人がいるかも知れない。大学の授業で自分史を書くことを課題とする教員もいる。愛知県春日井市にある「日本自分史センター」の講師でコピーライター、シナリオライターの平岡俊佑先生は、ある中学校で生徒向けに自分史についての講演を頼まれ、「 昨日 ( きのう ) まではヒストリー、 明日 ( あした ) からはミステリー」と話して大いに受けたという。さすがコピーライターである。このように、以前は圧倒的に高齢者が多かった自分史の書き手も多少年齢的に広がり、書き方も多様化している。

 ところで、自分史は誰が読むのだろうか? 自分史を書いた人と関係ある人無い人に大きく分けると、ほとんどは関係者が読者と言うことになる。それでは、どんな関係者か? 家族、親族、仕事関係、同窓生、そして忘れてならないのは、生死の狭間を共に生きのびた戦友ーーー。自分史を書くグループに所属している人であれば、グループ関係者が最も核の読者層となる。関係ない人というとどんな人? 自分史が何かの賞をとれば無関係の一般購読者が読んでくれる可能性は高くなる(例えば、北九州市で自分史文学賞という公募を行っているが、その入賞者の自分史は東京の出版社より出版されている)。その他、執筆者と無関係で自分史を読む人に、研究者がいる。自分史をドキュメント(記録)あるいは資料として読む人達である。その分野は多様である。歴史学、社会学、心理学、政治学、経済史、経営史等々。自分史をドキュメント、資料としてどのように使うかは研究者のテーマ、方法によって多様である。

 たとえば、第二次世界大戦中、満蒙開拓団で旧満州国にいた人の自分史から日本の植民地政策の実態を知ろうとする研究者もいよう(現代史的関心)。あるいは、中学卒業後和菓子職人になるために丁稚奉公した人の自分史から「親方ー子方制度、徒弟制度」における人間関係、規範のケースを得るだろう(職業社会学、産業社会学的想像力)。また、大学卒業後家電製品販売店を興しその地域で一流と認められた会社にした人物の自分史から「自己向上心」や「達成意欲」や立身出世的志向の正直な記述を見出すであろう(自我論的想像力)。あるいは、機械メーカーに勤務したモーレツ社員の自分史から家庭・家族生活の変化と高度経済成長期の会社発展にみる社会史との交差を発見する研究者もいよう(歴史社会学的想像力)。

 しかし、自分史をドキュメントとして、資料として読み込むという作業はそんなに簡単なものではない。一人の人物が自分の過去を振り返るとき、その記憶に間違いはないか。仮に歴史的事実においてほとんど間違いがないとしても自分史に記された記録はその人物の立場視点において記述された過去である。それも自分史を記す時点で「記憶」を辿って記されたものである。現在の自分を納得させるための自己正当化や精神分析でいう「合理化」作用も働く。かといって、始めから「嘘」で固めた自分史を書くという人はよほど特殊な人でない限りいない。むしろ、自分史の書き手は<ふりかえる><残す><伝える>(小林多寿子)という思いを持って過去に関わった「事実 facts 」を見つめる。しかし、自分史は事実 facts だけを集めたものではない。幾つかの事実 facts をもとに想像力を働かせて作り上げた(構築した)「作品」なのである。

 以前、高名な考古学者、江上波夫が遺跡から発掘された「遺物」の復元には想像力が必須だと言っていたのを思い出す。もし、発掘された遺物、壺や 甕 ( かめ ) の破片だけを接合すると「いびつな形」となり、壺や甕を復元することは出来ない、と言うのである。そこには、遺物のかけらとかけらの隙間を埋める、壺や甕への想像力が求められる。このような想像力(対象を取り扱うことの意図と知性と感性)は、自分史の書き手にもそして読み手にも求められるものではなかろうか。

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