サングラス、取っても、磨いてもサングラス?

槻木 裕

 「偏見を抱いて、他人(ひと)や物ごとを見てはいけない」と言われる。当たり前の道徳として特に異論はない。教育番組で若者たちは「こんな恰好をしていても、色眼鏡をかけて見て欲しくない」と言い、「ありのままの自分を評価して欲しい」と要求する。
 「ありのままの自分」、「ありのままの社会の姿」か‥‥。時に「真実」とも置き換えられる、遠い若いころの懐かしいことば、‥‥だのに、今もって大いに気にかかっていることばだ。

 哲学に「私たちは、ある理論を背負って物ごとを見ている」という認識論がある。認識論というのは、どのようにして私たちは物ごとを(正しく)知るにいたるかを問題にする哲学の重要な分野だ。この分野はだんだんに心理学によって蚕食(さんしょく)されてきていて、この考えも心理学的な諸研究に多分に影響されての主張と言えるのだろう。これを少ししゃれて、「理論負荷(ふか)的に物ごとを見ている」と言うが、何のことはない、要するに「私たちはサングラスをかけて物ごとを見ているのですよ」ということだ。

 「理論」といっても、専門的な知識の体系ばかりを言うのではない。「素人(しろうと)理論」で十分だし、だから確たるものでない「あまり整理されていない信念の集まり」でも十分である。ともあれ、そういう色眼鏡をかけて物ごとを見ている、というのがこの‘認識論’の眼目だ。
 思い当たることなど、いくらでも挙げられよう。隣の人が、実は人間ではなくロボットやアンドロイドかも知れないのに、たいていの場合、私たちは‘彼/彼女’が人間であることをはなから疑わないし、人間であると信じて、そうでないか、確かめもしない。食堂で出されるラーメンが本当にラーメンかどうか、毒が入っていないか、サンプルを取り、ちゃんと確かめてから食べるという人は、おそらくまともな日常生活を送ることができないに違いない。その意味で「信念負荷的に物ごとを見ている」というのは、疑いもなく正しい。

 ところが、そうすると、たとえば「服装の乱れは心の乱れの現われ」や「日本人は今も好戦的で野蛮」という‘偏見’と、「これは食べられるラーメンである」という信念の間の区別がつけにくくなる。偏見の目で見られるのはいやだから、色眼鏡をはずしてくれとわれわれは言う。しかし、偏見=思い込みと信念の差がそんなにないなら、色眼鏡を一つはずしても、別の色眼鏡をつけている自分がいるだけではないか。はずしたつもりでも相変わらず色眼鏡、黒いサングラスを磨いたつもりでも、相変わらず緑の色つき眼鏡をかけて(黒―果たして黒だったのか?―のサングラスを含む)物ごとを見ているというのが、理論負荷的認識論の言わんとするところだからだ。 ―「サングラス、取っても、磨いてもサングラス/ラッキョウ、ラッキョウ、剥いてもむいても、皮だらけ」 ―こうして簡単に視点や認識の相対主義に至り、容易に懐疑主義の波に呑み込まれる。

 認識の相対主義は、比較文化の視点の相対性、文化理解の相対性に直結しているから、とりあえず「人間文化へ招待する」という任務はもう果たした。まあしかし、これで終わらずに、ついでだから、後期にやろうとしている講義にも招待しよう。
 「サングラスをかけて物ごとを見ている」としたら、「自分が自分を見る」こと、あるいはその結果思い描く「自己評価像」も‘偏見’を免れまい。先の議論を受けて、相対主義、懐疑主義を是とし、「ありのままの自分を見てくれ」という素朴な要求を取り下げるのがクールな現代人なのかもしれないが、「評価を含む自己像も、それでいいとクールに済ませられますか?」というのが、講義の一つの重要なテーマだ。
 講義がどう進むかは、実際に(入学して)聴講してもらおう。ただ一つ、この講義でも、新しいサングラス(知識)を奨めたいと必ずしも思っているのではない、と述べておきたい。相対主義ではなかなか割り切れないものであることを、どこかで味わってもらって、私といっしょに悶えてもらおうか、ということが授業の大きなねらいである。
 「ありのまま、真実」が「今もって大いに気にかかることばだ」とは、このあたりのことなのだが、正直に言うと、「真実→絶対→神(の視点)」という西洋哲学の方向よりも、「サングラスをはずせない→不完全→悪」と進み、対立極として、知識の精確さや量を競うのではない「放念、無想」に心引かれるのが今の私だ。やっぱ、私は東洋人だ(相対主義的認識論にとどまっていては、こう断言する気持ちよさを味わえまい)、つくづくそう思う。

Comments are closed.