医師の白衣を見て泣く子ども ―条件性情動反応

木場 深志

ジョン・B・ワトソン 病院で、待合室にいる間は平気で遊んでいたのに、診察室に入ったとたんに泣き出す子どもがいます。子どもにとって、診察室はなぜ怖いのでしょうか。
 1920年、ジョン・B・ワトソン(右の写真の人物)と彼の助手であったロザリー・レイナーの2人が、「条件性情動反応」という論文を心理学の研究論文誌に発表しました。その内容のうち実験の部分を以下に簡単に紹介します。

 実験の対象になったのはアルバート・Bという生後11か月の坊やでした。健康で、他の子どもたちと比べても発達は良い方だったようです。ワトソンらは、この坊やが8か月と26日目に、予備的な検査を行いました。子どもにウサギ、イヌ、サル、お面、綿毛、積木、実験用の白ネズミなどを見せて、坊やがこれらを恐がらないということを確かめるものでした。坊やは見せられたものを恐がることはありませんでした。このことを確かめた後で、ワトソンらは坊やの背後で突然大きな音が鳴らしました(鉄パイプをハンマーで思い切り叩いた)。坊やは音を聞いて驚いたように息を詰め、手を振り上げ、3度目には泣き出しました。これは、彼が突然の音に恐怖を示すかどうかを確かめるための手続きでした。
 実験は坊やが11か月と3日目になる日に開始されました。突然、かごから白ネズミを取り出して坊やに見せ、坊やがネズミに手を出した瞬間に鉄パイプを叩きました。坊やは飛び上がり、マットにうつ伏せになり、泣き出します。これが2回繰り返され、その後は、幼児に余り激しい打撃を与えないように実験を1週間休んだと論文には書かれています。 1週間後、実験が再開されます。まず、音を聞かせずに白ネズミを見せられた坊やは、ネズミを見つめ、やがてそっと手を出すものの、手がネズミに触れるとぱっと手を引っ込めるという反応を見せました。その後、ネズミを見せては大きな音を聞かせる、という以前と同じ手続きを3回繰り返したところ、ネズミを見ただけで当惑した顔になり、すすり泣きが始まるようになりました。さらに2回、同様の手続きを繰り返すと、ネズミを見た瞬間に泣き出し、逃げるような動作をするようになりました。
 その5日後と10日後に、ワトソンらは坊やに、予備的な検査で使ったいろいろなものを見せました。詳しいことは省きますが、坊やは白ネズミおよびそれと似ているもの(ウサギ、綿毛など)に対しては恐怖の反応を示し、積木やお面などは全く恐がらなかったということです。
 論文ではこのあと、この実験についての考察が述べられていますが、ここでは省略します。

 恐怖症という病気があります。狭い場所、広い場所、尖ったもの、ある種の動物など、普通には恐怖や不安を引き起こさないものに対して、異常な恐怖感を感じる障害です。精神科などでの診断名は、「不安障害」の中の「特定の恐怖症 Specific Phobia」です。対人恐怖というのもありますね。恐怖症とまでいかなくても、ある決まった場面では異常に固まってしまうとか、あがってしまうとか、そういう体験を持つ人は多いのではないでしょうか。
 ワトソンらの実験は、こういった特定のものに対するいわれのない不安や恐怖感の成り立ちを説明しています。当然誰もが恐怖を引き起こすような場面におかれたとき、たまたまその場にあった、恐怖とは何の関係もないものと恐怖感が結びついてしまうのです。心理学ではこれを「レスポンデント条件づけ」と呼んでいます。

 今どき、このような実験をしたら、たちまち人権侵害で問題になるでしょう。現在、心理学には実験に関する倫理規定が定められていて、ヒトだけでなく動物実験の場合でも、この規定を守らなければいけないことになっています。しかしこのワトソンらの実験は、「学習理論」と呼ばれる心理学の理論の立場から恐怖症の成り立ちを説明し(ワトソンらはこれを恐怖症とは考えておらず、条件性情動反応と呼んでいますが)、恐怖症の治療に有効な「行動療法」と呼ばれる方法が開発される端緒となった、大きな意味のある実験だったのです。この数年後には、メアリー・ジョーンズによって、白ウサギを異常に恐がる2歳11か月のピーター坊やの治療に成功したという論文が出されています。

 

ワトソンとレイナーの実験の様子
ワトソンとレイナーの実験の様子。中央の女性がレイナー、左がワトソン。

 

参考文献

アイゼンク,H. 異常行動研究会(訳) 1973 「行動療法と神経症」 誠信書房
  (Eysenck, H. J. 1960 Behaviour Therapy and the Neuroses. Elsevier.)

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