犬が猫になった話

槻木 裕

銀之介

 昨年の秋、ペットショップで猫を買った。それまでに、何を飼うか我が家で論争があり、家内は絶対に犬、娘は絶対に猫、息子はどちらでもよいという勢力図のなか、僕は犬派であった。できるなら柴犬と思っていたのだが、金魚を買いに入った店で、ついでにと見て回ったケージにちょこんと座っていた一匹の子猫に目がとまって、ほとんど衝動的に手付けを払った。

 犬派から猫派に簡単に鞍替えしたのは、生意気盛りの高校生の娘がちょっと元気がなくて気晴らしになればと思ったからだが、そもそも僕が犬派に与(くみ)したのは、家内が健康のために僕に朝の散歩を薦め、犬のお伴をするのであれば、割合簡単に散歩の習慣がつくのではないかと、その程度の理由でしかなかったことにもよる。“犬が猫になった”おかげで、家内は僕に、朝の散歩が体にいい、いいと、ガァガァ言わなくなった。

 子猫を「銀之介(通称、ギン)」と命名した。品種はアメリカンショートヘア、略して「アメショー」。買った時は生後3ヶ月であったから、今は半歳ちょっとというところである。小さかったのに、みるみる大きくなった。それにつれて、銀之介の持ち前の気性もあらわになってきた。こいつ、けっこうきかん気なのである。
 飼いはじめて2ヶ月後ぐらい、まず家内が、ギンを叱ると少し後に仕返しにくると訴えた。たかが猫ふぜいが何をバカな、そんなこと、と笑っていたが、確かにそれらしき行動をする。時たま爪を立てたり咬んだりするものだから、大きな声で威嚇したり叩いたりすると、一目散に逃げるのだが、さらに威嚇を続けたりすると、反撃態勢をとって跳びかかってくる。知合いとの猫談義からすると、これはどうもアメショーという猫の性格らしい。かなり時間をおいてから仕返しにくる?と思われることもあって、そうなると、猫の記憶力はいかほどかという問題にもなるが、まあ、そこのところは同僚の動物心理学者の中崎氏に暇なときに尋ねることにして、ともあれ猫が一匹加わった生活を、思いがけず夫婦で楽しんでいる昨今である。

筆者と銀之介

 孫に恵まれるのはまだまだ先のことであるので、やれどこそこへ跳び上がったとか、ひっかいたとか、そんな他愛もないことが話題になるのだが、僕はとりわけ、叱ると仕返しにくる、この強気の性格に愛着を覚えている。これが犬だったらどうだろうか。犬は目上の者には絶対に忠実である。猫は餌のときにはすり寄ってくるが、そうでないときは抱こうとしても傍らを涼しい顔ですり抜けていく。ご主人さまだろうと何だろうと、自分の趣向に合わぬこと、主義でないことはしないというのが猫だ。このような犬と猫の鮮やかな対照性を目の前にして、いったい僕は猫なのだろうか、犬なのだろうか?と、ギンと戯れながら、このところ割合まじめに考えてみたりしている。
 そこへいくと、我が家の娘は確実に猫である。おこづかいがほしいときはゴロニャーンで、父親の権威、ここにありというものだが、そうでないときは、まるで尻尾を高く掲げてすたすたと横切る銀之介サマである。家内もこのところ猫性がだんだん強くなって、いつでも反撃モードをスタンバイだ。このごろの学生はどうだろう? 一度叱るとシューンとして、もうもとには戻らないどころか、寄りつきもしない。それで、FDや「学生支援」と称するうねりのなかで、上手な叱り方ならぬ“励まし方”などを懇切丁寧に教授されたりして……、あ~あ。

 まあ、それもいいし、いまや先生稼業にとって大事なことなんだけれど、白髪のふえた僕にとっての本音は「(自他ともに)情けない」の一語に尽きる。猿族ゆえの、なまじ達者な記憶力ゆえの悲劇か、とも思うが、知能が発達しているのが人間の唯一の取り柄なのだから、知能にあふれた反撃の仕方でも考えてみろと、またまた一喝したくもなる。

 それにしても、さっきの「いったい僕は猫なのだろうか、犬なのだろうか?」という自問が気になる。部長、課長、係長……、サルの社会では当人の気性よりも、すべからくこのような肩書きがものを言うことが多く、そんな状況の中では、相手と場所を選んで、めまぐるしく猿が犬になったり猫になったり、犬が猫に、猫が犬になったり…(と様態の激変)を繰り返す。

 ご存知のように、古代インド人はこのようにさまざまな生き物に変わることを「輪廻(サンサーラ=経(へ)巡(めぐ)り)」と呼び、生きることが苦にほかならないことの象徴的現象と見なした。それで、先の自問はむしろ「僕は、誰に対して、いつ、どの程度、猫であるべきか犬であるべきか?」と形を変えて、より切実な問いとなるのだが、これでは何だか、いま現在の自分に引き当てて、余りに切実すぎてシャレにもならないから、そんなことには素知らぬ顔の銀之介にあやかって、今回の落ちはおとなしく「人生は苦」ということにしておこう。

素知らぬ顔で寝こける銀之介

※文中の写真は、クリックすると拡大できます。

Comments are closed.