鈴木大拙の英文について

川畑 松晴

 鈴木大拙については、このホームページ上でも前に書いた。詳しくは、2006年5月号を参照していただきたいが、簡単にここでも紹介をしておく。
 大拙は、明治3年に現在の金沢市本多町(北陸放送の裏手に生誕記念碑がある)に生まれ、昭和41年に95歳でなくなるまで、禅・仏教・日本文化の研究と普及に尽くした仏教学者「世界のダイセツ・スズキ」である。18歳で金沢に新しくできた専門学校(現在の高校に相当する)を中退したあと、小学校の臨時講師を経て、東京の早稲田大学や東大に在籍するが、そこでの講義に満たされず、徐々に禅の修行に傾倒するようになった。鎌倉の円覚寺に最初は通いで参禅し、22歳頃からは寺坊の一隅に住み込み修行僧となったのである。そして、縁あって、27歳でアメリカに渡り、印刷出版の助手を務めながら禅の研究を続け、結局11年余りをシカゴの近くのラサールで過ごし、帰国した時は39歳であった。その後は、学習院、大谷大学などで教鞭をとりながら、著作と講演を通じて上述の偉大な貢献を成したが、出版物・講演は英語によるものが約1/3であるといわれる。本稿では大拙の英文のほんの一端を紹介したい。

 次の日本文は、禅が前提とする基本的な世界観を述べています。

「普通吾等の生活で気のつかぬことがあります、それは吾等の世界は一つでなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。これら二つの世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものだときめているのです」

 これを大拙は次のように訳しています。

 In the ordinary way of life, most of us vaguely assume that there is a world of sense and intellect and a world of spirit, and that the world we actually live in is the former and not the latter, and, therefore, that which is most real and intimate to us is the former while the latter is merely imaginary if not altogether non-existent.

 英文をあなたはどう読みますか。まず、日本文の直訳ではなく、かなり自由に訳していることに気づくのではないでしょうか。もちろん、どちらも彼自身の文章ですから、訳しているというよりは、おなじテーマについて、自由に「英文で書き直している」というのがより正確な表現かもしれません。そのため、和文は和文、英文は英文なりに説得力の強い文章となっているのでしょう。
 和文を元にしながら、英文の特徴を列記してみます。

1.和文で「気のつかぬ」と否定で述べている部分を“vaguely assume”と肯定で表現している。
2.「一つではなくて、二つの世界...そのままに一つだということです」の部分が英文にはない。
3.“therefore”に当たる語が和文にはないが、英文では結論を述べる部分で効果的に用いている。
4.英文は三つの接続詞thatを用い、一気にたたみ掛けて一文で、三つの和文の内容を述べている。この際、former, latterという代名詞に相当する表現をうまく活用している。

 さらに、次の英文のように、“is thus relegated”(「このように(より低いものに)格下げされているのです」の意味だが、和文ではこれに直接相当する部分はない)を用いて、和文で述べている最後の部分を付加しているが、これも、論理的で説得力のある英文となっている。

 The world of spirit is thus relegated, though we may admit its existence, to the imagination of poets, visionaries, and the so-called spiritualists.

 さて、ここで日本文に戻って、もう一度読んでみてください。こちらの方も、短文を連ね、「それは...、そうして...、今一つは...、これら二つの...」とやはり論理的にたたみ込んで、読者を彼の世界に引き入れようとしています。
 大拙の著作の多くには共通する文体上の特色があるように思います。それは、話し言葉で書かれているということです。実際に、彼の著作の多くが講演を元にしているということもありますし、何よりも大拙にとっては、講演はもちろんのこと、直接に手で書いた場合でも、それらは「説教」であり、読み手に禅や仏教の真髄を「語り」かけていたのでしょう。

 ここで引用した文章は、『仏教の大意』、“The Essence of Buddhism”の導入部に続く、本論の最初の部分です。この本は、第2次大戦でわが国が無条件降伏した後の数ヶ月後に、大拙が天皇陛下にご進講をした時の内容が元になっています。当時は、アメリカを中心とする連合国の支配下にありましたから、この進講も彼らの指示によるものです。天皇は、キリスト教についての進講を受けるように要請されたのですが、まず先に仏教について聞きたいと注文を出して、大拙が呼ばれたようです。昭和21年4月23日と24日の2日間に渡って行われ、当時大拙は75歳、昭和天皇は44才です。この時、日本の戦争責任を裁く東京裁判はまだ、始まったばかりで、天皇の運命も定かでない状況だったと思われます。進講の中で、どのような会話が交わされ、天皇はどのような質問をされたか、興味の沸くところですが、詳しい記述はどちらの側からも公にはされていません。
 いずれにしても、大拙は、この時のご進講をもとに、増補・修正して一般大衆のために『仏教の大意』として小冊子にまとめ、その後、外国の読者のために彼自身が英訳したものが“The Essence of Buddhism”です。日本文も英文も大拙自身によるというのは、意外に少ないのです。大拙の英文著作の多くは、別の日本人、主に彼の弟子に相当する人たちの手によって和訳されています。その点で、これは小冊子でもあり、私の研究対象としてとても貴重な大拙の「作品」です。

 最後に、次の文章を、とくに下線部に注意をして読んでみてください。禅ではよく説かれる内容のようですが、和文は和文なりに、英文は英文なりにリズミカルで達意の文体ですね。また、和文の「実が非実になり、真が非真になる」という肝心要の部分を英文では別の表現で2回繰り返し、西洋の読者の理解を得ようと努力しています。この哲学的内容は私にはなかなか理解し難いのですが、和英を合わせ読むことによって、理解が深まるのは事実です。それは、英語で書くとき、大拙は、仏教や東洋の精神について無知な読者を対象としていることをよく自覚しているからです。その点で、私のみならず、現代の多くの日本人にとっても、大拙の英文著作は、仏教の入門編として適切なのかもしれません。

「このようにして霊性的世界を実際に把握するとき――或いはこういってもよい、霊性的世界が実際にこの吾等の感性的世界へ割り込んで来るとき、日常一般の経験体系が全く逆になるのです。実が非実になり、真が非真になる、橋は流れて水は流れず、花は紅ならず、緑は緑ならずということになります。
普通では、いかにも奇怪千万と思われることですが、霊性的直覚の立場から見ると、そういうことになるのです、それはこの霊性的世界が一般の感性的・知性的世界へ割り込んでくるとき、吾等の今までの経験をみな否定するからです。」

As we thus go on searching after the truth, we finally come to the spiritual world, or rather the spiritual world breaks upon this world of sense-intellect. When this takes place, the whole order of things changes; the logical is no more logical, and rationality loses its significance, for now the real equals the not-real and the true the not-true. More correctly stated, water does not flow in the river, the flowers are no more red, and the willows are not green. This is the most startling event that can take place in the realm of human consciousness – this spiritual world’s breaking upon the world of sense and intellect, upsetting every form of standardized experience which prevails there.

大拙の英文著作を読む読書会ができれば、面白いでしょうね。

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