近況と最近考えていること

益子待也

 6月2日と3日に名古屋大学で第41回日本文化人類学会が行われる。わたしは北米セクションの座長を務めることになっているのだが、その発表内容を見ると、「カナダ日系人女性移住者の問題」、「多文化都市トロントにおけるエスニック高齢者施設」、「ニューヨーク・ハーレムにおけるアフリカ系アメリカ人ムスリム・コミュニティ」、「米国サウスカロライナ州におけるアフリカ系アメリカ人の社会運動」と、かなり多様で、しかもチンプンカンプンの内容だ。発表者は、京大、一橋大、民族学博物館、長崎県立大などの専門家で、まとめ役のわたしはと言えば、老眼が非常に進んで、元から近眼だから、遠いところも近いところも見えない。どんなことになるか戦々恐々としているが、楽しみでもある。少なくとも、名古屋コーチンだけは忘れずに食べてこようと思っている。

 わたしが研究している学問を一言のキーワードで表すなら、「世界の文化・日本の文化」ということに尽きる。それは狭義の文化人類学とも日本民俗学とも違う。あえて言うなら、比較文化論だ。ただし、それは今どこかの大学で教えられているような比較文化論とはまったく違う。人間に関するすべての文化現象、『春のワルツ』も泉鏡花もすべて包含するような幅の広い学問を考えている。今のわたしは映画や文学や音楽が好きになっているから、それらもこの学問のなかに含めたいと思っている。しかし、そうなると、当然、既成の学問分野の枠組みから、はみ出してしまう。いわば「学問に非(あら)ざる学問」だ。それなのに、「文化人類学」という手垢のついた学問分野の専門家のような顔をして学会の座長をつとめなければならないのだから、かなりの演技力が必要とされることになるだろう。

 『春のワルツ』といえば、この4月から、わたしの卒研ゼミに属するM君と一緒に、本学の中島先生のご助言を仰ぎつつ、韓国語の勉強を始めた。韓国語を学ぶと、日本語についても見えてくることが多い。とくに、ハングルの勉強を始めてから、イ・ヨンスク氏の『国語という思想』(岩波書店)という本を見直すようになった。『国語という思想』は面白い本だ。この本のなかで、イ・ヨンスク氏は近代日本において、どのように「日本語」という概念の統一性が創り上げられていったかを丹念に調べあげている。明治政府の初代文部大臣となった森有礼でさえ、「日本語」という統一された言語体系の存在を信じることができなかったという指摘は、本当に興味深い。本来、言語とは文字化される以前に話しことばとして存在し、話し手は自分が○○語を話しているという意識はなかったはずだというイ・ヨンスク氏の指摘は、ハングルという文字を考える上でも、参考になる。

「日本語」にしても、「朝鮮語」にしても、「ヴェトナム語」にしても、固有の言語に相当数の漢字語が加わって成立している。現在のヴェトナムの文字はローマ字化された「国語(コックグー)」を使っており、漢字は使用されていない。ヴェトナム語にも、「字喃(チューノム)」という自国で発明した民族文字があったのだが、この字喃(チューノム)文字は今日では廃れてしまった。ヴェトナム語と韓国語と日本語の形成過程と言語政策を相互に比較してみるのも面白いと思う。

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