益子 待也

 年をとったせいか、最近、五木寛之氏がよくいう「他力」ということを考えるようになった。自己流の解釈で、もしかしたら全く見当はずれの解釈なのかもしれないのだが、ネタがないので、少し書いてみたい。つまり、自分は自力で生きているように思っているのだが、「他力」とでも呼ぶしかないような何か神秘的なエネルギーをもらっているおかげで、自分は多少とも健康に生きていられるのではないかということだ。仏教用語に対して「神秘的」という表現を適用すること自体、自己流の解釈なのだが、そういう解釈でもしなければ、なぜ自分が脳梗塞にもパーキンソン病にも舌ガンにもならずに今日を生き抜くことができているのかが説明できないのだ。このように「他力」を解釈すると、自然に感謝の気持ちがわいてきて、自分がまるで自然と一体になっているかのように感じてくる。わたしは、これも全くエゴセントリックな解釈をして、これこそ「梵我一如」の境地なのだと勝手に決めつけて、悦に入っている。

 今夏、わたしとしては、全く初めてといっていいことだが、ゼミの学生たちと飲みに行って、カラオケを歌う機会をもった。その際に習った歌で、オレンジレンジという若者のグループが歌う「花」という曲がある。「花びらのように散ってゆく事 この世界で全て受け入れてゆこう 君が僕に残したモノ 今という現実の宝物 だから僕は精一杯生きて 花になろう。」わたしはこのような詩を若者が書いたことに感心した。ただし、詩は素晴らしいと思うが、このメロディーにはついていけない。わたしには、この曲はそれこそ読経のように聞こえる。どうせなら、演歌のメロディーを付けてほしかったと思う。

 10月の連休を利用して、東大で開催された日本民俗学会第57回年会へ出席してきた。 東京大学で日本民俗学会が開かれるのは、とても珍しい。東大には日本民俗学の講座はなかったのだが、最近になって、文化人類学研究室のなかに、日本民俗学の講座ができた。岩本通弥と菅豊という東大に就任した二人の民俗学者は、どちらもわたしの後輩で二人ともよく知っている。彼らは今や日本民俗学会のビッグ・ショットにのし上がったようだ。

 今年の日本民俗学会の公開シンポジウムは「野の学問とアカデミズム」という主題で行われた。しかし、学会の運営は大がかりで、日本民俗学会が制度的にも本格的な学会になりつつあると感じられた。「野の学問」として民俗学が本来的に持っていた周縁性を肯定的に評価しようとするシンポジウムの主旨は、よく理解できる。しかし、皮肉なことに、従来アカデミズムのなかで必ずしも制度化されてこなかった「民俗学」が組織化されることによって、民俗学がこれまでもっていたアマチュアリズムの良さが排除されていくのではないかという危惧を覚えた。今後、アカデミックな民俗学の講座は、各大学の中に増えていくように思える。民俗学はとても面白い学問だし、専門家以外の人にも興味のもてるテーマが多いから、東大の大学院に民俗学の講座ができたことで、民俗学は廃れるどころか、人文科学の人気分野として今後大いに発展し、花形の学問に育っていくような予感がする。

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