書評とディフォルメされた鏡像

槻木 裕

 僕が昨年10月に出版した『現代の無我論―古典仏教と哲学』(晃洋書房)の書評が出た。まず、誉めてあるか、けなしているか、それが気がかりで一気に読む。少なくともけなしてはいないと分かると、どれくらい誉めてあるかを確認しようと、何度も読んだ。結果的にはsafe。今後の研究に対する要望などもあったが、「誉めるのにシブチンという噂のあるあの評者先生が、これだけ書いてくれたのだから、まあ、いいとせねばなるまい」との結論を得て、まずはひと安心、人心地がついたというところである。

 それにしても自分の書いた本についての書評を読むというのは、オカシナ気分にさせるものだ。書評だから、僕が長々と述べたことがいたるところで要約してある。その要約を読むと、「ヘェーッ、オレって、こんなこと考えていたんだ」と、こっちが戸惑ってしまう部分がいくつかある。婉曲に、丁寧に、苦労して叙述したつもりの箇所が、「当たり障りたっぷり」に要約して批評してある。“真意を要約された”側の危なっかしい気分たるや‥‥。分かる? まあ、たとえば、ご近所の奥さまに対するあなたの挨拶が、次のようにその“真意”が要約された場面をご覧(ろう)じろ。

1.〔本人による実際の発言〕
「やあ、奥さん、ほんとにいつもおきれいで、お若いですね。」
2.〔他者による真意解説〕
『ホンマにええ歳こいて、チャラチャラと厚化粧に派手な服!
もういい加減に自然の摂理に従ったらどうだい。
年寄りには年寄りなりの別の美しさもあるだろうに‥‥』

 確かに本人は1と言ったのである。当たり障りのないように苦労して。2のように思わないでもなかったのだが、それが“真意”だと“解説”されると、“ボクって、なんて悪くて大胆な人なんだろう”と自分で驚いてしまう。これを、ヴィジュアルで表現すると、下の写真となる(とオモウ)。
 ―こんなつまらんことをヴィジュアル的に解説しなければならないとは、自分ながらも情けない。僕の言いたいことがもう分かってしまった人は後は見ないでよろしい。

 ただしかし、右の写真をとるために、ウン千円かかったという涙ぐましい努力を涙ながらに覚えておいてほしい。これもみんな我が国際文化学科のためなのだ。
 分かるかね?

 さて、写真左に写っているのは僕の後頭部である。だから、これは僕が本を出版した記念にと思って、写真を撮ろうと、その前に鏡に向かって、お顔のウォーミングアップをしているところだ。
 当然、僕の顔つきはいつもそうであるように、謹厳実直。端正な顔立ちを、そのまま撮ってもらおうと、鏡に向かって決めのポーズの練習をしているわけだ。

 ところが、「書評」という「ゆがんだ鏡」、すなわち、「要旨解説、真意要約」マシーンに映し出された僕の本はひどくゆがみ、それどころか、ナ、ナント、端正なお顔までがディフォルメされて、そのうえ謹厳実直な僕本人に向かって「アッカンベー」をしているではないか! そう、まさしくこれが「自分の書いた本の書評を読む」ことのヴィジュアル表現なのだ(現像がうまくいかなかったが、僕の後頭部には冷や汗がいく筋も流れている)。

 で、これで話は終りでない。僕も他人の考えや説をいつも要約したり、「この真意はと言うとだね」といつもやっている。要約は書評だけとは限らないのだ。学者なら多かれ少なかれ、他人の考えを要約し理解(>誤解)する(ただ、その考えを述べた本人サマに、その要約の内容が知られない場合が多いだけだ)。・・・とすると、オレたちはみんな「ゆがんだ鏡」で、ディフォルメ製造機のわけだ(これが“コミュニケーション”の実態なのだ、というと、別の問題になるか?)。でもって、‥‥とすると、僕の“華麗な”哲学の講義を3枚ほどにまとめてレポートしろと言っているのに、たった10行ほどにぶざまに「まとめやがる」あの人たちに対しても、責められないのでは!?
 エェーイ、「因果はめぐる糸車」では、うまいオチにならない。破れかぶれで僕は尋ねる―

「他人の考えを要約することを仕事とする人、つまり先生、学生、その他諸々の人よ、“要約するって、意外と罪じゃない?”」

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