初めての論文作成

中西 茂行

 大学3年生の新学期(1970)、2年生までの成績表をもらいに教務課へ行った。窓口で中年の女子職員の方が成績表を見て私をじろりとにらんだ。
「あなた、これ、4年で卒業するつもり?」
 言われて当然だと思った。取るべき科目の多くを単位取得していないのである。それに、経済学部にいながら経営学部のゼミに所属し関心領域は何となく社会学、心理学方面に傾いていた。将来への見通しもプランもはっきりせず、何となく好きにやっていた。

 キャンパスを歩いていたら同じクラスのKがやって来て「オレ、学生懸賞論文に応募するわ」と言った。この大学では10年以上前から経済学部、経営学部、理工学部経営工学科の学生に年1回、学生懸賞論文を公募し、入選者の論文を「学生懸賞論文集」としてまとめ、学生らに配布していた。Kは根っからの東京生まれ東京育ちで、地方から詰め襟の学生服姿で上京、登校した私に都会の学生らしい「遊び」の手ほどきをしてくれた人物だった。軽いノリの彼に引きずられるように私も学生懸賞論文なるものに挑戦することとなった。ゼミ担当教員にその旨の意思を表明したら「データなんかを使って書くと説得力があるよ」という風なことを言われた。

 論文作成に向けて私なりの準備が始まった。日本の「広告」について何か書きたいと思っていたので、日本一の広告代理店、電通の資料室らしきところへ足を運んでみた。次に、マーケティング、広告戦略の参考図書とそれに日本の広告の歴史や現況に関する私でも読めるような簡単な本を数冊購入した。

 3年生の夏休みはこの論文作成中心の生活だったように思う。当時は全国どこの大学も学園紛争真っ只中で、私のいた私大も1年次に学内で火の手が上がり、1年次後期から2年次(1969)にかけてはほとんど授業ができないような有様だった。しかし、この大学はもともとおとなしいノンポリティカルな学生が多く、3年次にはおおよその平静を取り戻していたように思う。
 付焼刃の知識をもとに、400字詰め原稿用紙に鉛筆で原稿を書き始めた。江戸時代の広告媒体「引札」から説き興し、明治、大正の広告、そして現代のマスメディアのもとにおける広告まで書き進もうというのである。現代の部分を書こうとして参考にした本の中にデーヴィッド・リースマンという人の『孤独な群衆』という本と「他人志向型」という現代人の性格類型が紹介されていた。そこには、現代人はマスメディアなどの情報に左右されやすいという観点が広告表現とからめて解説されていた。そこで、『孤独な群衆』の訳本を買って読んでみた。難しかった。しかし、この時なんだかもやもやしたものが胸の内にうずいた。「日本の場合、ちょっと違うんじゃないか?」。論文作成とは全く無関係に自分の関心のおもむくままに以前読んでいた本を引っ張り出して頁をめくってみた。頭がピンとひらめいた。リースマンの他人志向型と以前読んだ本の中身がドッキングした。「伝統的他人志向型」――新しい言葉、概念の創設である。それは、今なら学術用語としても使われることのある「間柄」とか「間人主義」とか「世間」に当たることだった。それも今にして思えば、それまでに読んだ何かの本に同様のことが書かれてあったのだと思う。
 しかし、わたしはこのキーワードを思いついたことに小躍りした。

 現代の広告に関する記述をリースマンの「他人志向型」と私の「伝統的他人志向型」で書き進んだ。原稿枚数は、論文制限枚数50枚を超えるほどになっていたと思う。どうもしっくりこないな――。江戸と明治、大正と現代の論述が上手くつながっていない。ここでまたまたひらめいた。そうだ、我が創設のキーワード、伝統的他人志向型の説明文を頭に持ってきて、それを核に江戸、明治、大正、現代と書きつなげればいいんだ!
 ――それは原稿の前半と後半を完全にひっくり返すことを意味していた。

 当時は、ワープロやパソコンはない。全部手書き原稿である。一から書き直し。書き直しにどれくらいの時間を掛けただろう。締め切りの3日か2日前の午後に原稿は完成した。ちょっと一眠りして、後は清書だ。夕方、高校時代からの親友で別の大学に行っているYがやって来た。「酒飲もう」。彼とは1カ月に1度ほど新宿界隈を中心に飲み歩く仲だった。
 しかし、今日は飲むわけにいかない。論文締め切りが間近だ。Yが言った。「今日飲むのを付き合ってくれたらオレが清書してやる」。彼の字の上手さはだれもが認めるところだった。活字のような字が書けるのである。この取引に私は乗った。近くのたまに行くスナックへ行った。30代のおねーさんがやっているスナックだ。当時はカラオケもないし歌が下手な私も安心して飲めた。

 飲んで帰って一眠り。朝、起きたらYがまじめな顔で机に向かってくれた。何時間経っただろう。400字詰め原稿用紙50枚の清書原稿が完成した。提出締め切り日、悠々、私は論文を提出した。

 清書原稿の見栄えが影響したのだろう。入選した。一つの大学の3学部内の懸賞論文である。ここで自慢するほどのものでもない。しかし、当時の私には大きな励みとなった。

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