みんな日本語ができなかった

林 暁光

 17年前のある日。成田空港で飛行機から降りた最初の時、看板とか道路標識など、あちこちに漢字が使われているので、僕は日本語が一言も話せなかったけれど、「バンザイ」と叫びたいほど興奮していた。たとえ日本語が通じなくても、漢字が読めさえすれば、まあ「没関係」(中国語で「大丈夫」の意味)だろうと、自信満々であった。

 ところが、日本で最初の挫折(いわゆる「カルチャー・ショック」)が、まさか漢字表現のせいとは思いもよらなかった。その事件があってから、日本と中国では、同じ漢字が使われても、決して同じ意味ではないことが多いのだと分かるようになった。

 生まれて初めて日本人と一緒に働いたところは、東京の上野にあるファースト・フード店であったが、言葉が全く分からないせいで、3週間足らずでくびになってしまった。貧乏な自費留学生だから、仕事を一日も早く見つけないと生活ができない、と強く思った。幸いその後、ようやく時給がよさそうな新しいアルバイト先を見つけた。神田にある「天狗」という居酒屋だった。実際、この得がたい職場を大切にするつもりで、これからどんな苦労があったとしても、耐えなければならないと考えていた。まさかこの後、本来なら僕と全く無関係な「お尻事件」の巻き添えになるとは、思いもよらなかった。

 それはある週末の出来事だった。静子(仮名)という女の子が「セクハラされた」と店長さんに言い出した。彼女によると、某テーブルにいる数人のお客さんに遊びでお尻を触られたらしい。不満そうな彼女は店長に「たとえこの仕事をやめなければいけなくても、二度とそのテーブルにサービスに行かない」と訴えた。店長は他の店員を一人ずつ指名したが、ホールの女性たちはいずれも彼女と同じく「やめても従わない」という強硬な態度だった。まあ無理もない。そんな時、もし誰かが勇敢にテーブルにつこうものなら、みんなの前で「私はお尻をお客さんに触られても平気!」ということを宣言するのと同じなのだから。

 みんながみんな抵抗したので、店長も引き下がらざるを得なくなった。切羽詰まっていたところ、突然皿洗いの僕を思い出したようだ。僕は一生懸命推測した末、店長と女性店員たちの説明がやっと分かりかけてきた。大体の意味は――「静子のお尻は触られちゃいけない。また他の女のお尻も触られちゃいけない。林君のお尻なら『大丈夫』(中国語では、「強い男」という意味)。いや、林君のお尻なら全然誰も触らないのだ! とにかく、林君は安心して手伝ってくれたまえ」というような話らしかった。

「僕、本当にカッコウがよく、強そうな男と見えるの? 中国では、ごく平凡な顔立ち、いや、ちょっと醜い顔かもしれないが……」
 と、多少半信半疑でありながらも、「日本人の美的感じが少し違うかも」と、有頂天になってしまった。そもそも、接客の仕事をもっとも怖がっていた僕なのに、その日は、何人かの人に書かれた「大丈夫」「大丈夫」のメモを読んだり、ひとしきり「大丈夫」「大丈夫」の美しい声を聞いて、ニコニコしていた。それに、美しい娘さんたちのお尻の純潔さを守るためにも、一度だけでいいから、「大丈夫」になって騎士のように出征しなくちゃ!ところが、僕は、結局そのテーブルを持ちこたえることができなかったのである。正直に言えば、それらのお客さんたちは、決して想像したような恥知らずではなかった。言葉遣いや態度も紳士的だった。しかし、僕にとっては初めての接客だし、しかも「お尻事件」のためだろうか、どうしてもお客さんをうまくお世話しなければと不安になってしまったのだった。

 注文を聞いてメモを取る時には、もともとだめな日本語の聞き取り能力は、さらに悪くなってしまった。すべての注文に対して再三繰り返し聞きたださなければ分からなかった。お客さんたちは、最初の頃は、まだ我慢してジェスチャーを交えて微笑みながら、一つずつ教えてくれたが、同じことが繰り返されて、ついに疲れ果ててしまったらしい。仲間のうちの一人が机を叩いて怒りを爆発させた。立ち上がり、店長を呼んできて痛罵を浴びせた。「俺たちはいったい飲みにきたのか、それともこいつに日本語を教えにきたのか!? どっちなんだ!」こう言い終わると、カッカして大手を振って立ち去った。周りのお客さんたちは、みな愕然とした。

 「事件」の後、店の全員に僕は責められ、「大丈夫」という快く響く声はもうなくなった。店長もずっと根に持っているようで、まるでこの僕が静子のお尻を触ったから、彼のメンツが丸潰れになったとでもいうような感じだった。僕もいやになってしまい、仕事をすぐやめて、再び「失業者」になってしまった。

 日本と中国は、同種同文とよく言われたが、同じ漢字でも、罠にはまりそうな語彙がまだまだたくさんある。「愛人」とは、中国語で配偶者のこと;「手紙」は、トイレット・ペーパー;「丈夫」は、旦那さん;「湯」は、スープ;「娘」は、お母さん;「勉強」は、無理矢理……などなど。要注意! 油断(えっ?!「油断」とは、ガソリンの切れること)すると、何か大変なことが起こるかもしれないよ。それで、それから今日に至るまでの長い間、語意曖昧、または少し怪しいと思った日本語の漢字語彙に出会うと、必ず辞書を開くという習慣を身につけたのだ。

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