ワールドカップ狂想曲 ―「テレビの前での応援」について考える―

槻木 裕

Japanese fans

 いよいよドイツでワールドカップが始まる。「ああ、弱ったなぁ」と思う。やらなきゃいけないことが溜まっているのに、応援もしないといけなくなるのだ。愛国心をめぐる教育基本法の改正案に?を抱いていている戦後生れのこんなオジさんでも、無条件に日本の応援だ。「頼むぞ、高原! ガンバレ、中田、Nippon, cha、cha、cha!」というわけだ。
 で、だ。日本チームの活躍を願う熱い思いに水をさす気はないのだが、かな~り前から僕はテレビの前の応援にどんな意味があるのか?と、気になっているので、そのことをちょっと書いてみよう。話はとんでもないところに結びつく。こうだ。

「テレビの前の応援が応援として意味があるなら、礼拝を初めとする宗教的行為は意味がある」、あるいは、「テレビの前の応援に、応援の意味を持たせたいなら、礼拝を初めとする宗教的行為は無意味だとは言えない」

 我ながら下らない暫定結論だとは思うけれど、僕の考えることでも、たまにまともなこともあったりするから、できるだけまじめに書いちゃおう。

 応援、励まし、コミュニケーション……みな基本的には相手が目の前にいるときにやるものだ。応援された人が声援を受けて奮い立つ、と思うから、また応援に熱が入る。だが、テレビの前の応援……こりゃぁ、何だ?明らかに、僕の声援は選手に届かない。だから僕の声援の熱意と選手の活躍に因果関係はない。つまりだ、僕が日本でテレビの前で声を張り上げたところで、ドイツのフィールドにいる選手が元気づけられたりするはずがない。じゃあ、僕は何をやっているのか?「届いていると信じている?」。いや、それほど僕は非科学的ではない。テレビは電波の受信装置であって、発信装置ではない。「選手にテレパシーを送っている?」。アホラシイ。そんなことができるなら、日本人全員で相手チームの選手を金縛りにすればいい。日本の楽勝だ。
 「僕のやっていることは応援ではない」と考える余地は十分にある。やってることは、ただの「私的ヤキモキ」、ただの「手に汗握るテレビ観戦」……などなど。だけど、「なっかむら! がんばれーッ」というのは、やはり「応援」なのだ。だって、どう考えたって選手を直接的にサポートなどしてはいないのに、「私はサポーターである」とぬけぬけと自己認識しているのだからだ。「私的やきもき」と「応援」の間の相違は、ニコチンパッチを貼ってニコチンを補給するのと、煙草をくわえて実際に喫煙することが違うのと同じくらい異なる。同じくニコチン補給であるにせよ、後者は副流煙など他人に影響を及ぼすのに、前者は自分の体内のことにとどまり、他に影響を及ぼさない。

 そこでだ、さっきの強引な結論に至る道をたどるのだが、この場合、やっぱり自分の声援が選手に「届くと信じ」、かつまた冷静に考えれば「届くとは信じていない」ということになる。信じていないのに、声援が届くと信じていると認めざるをえない、と言うべきか。
 人間なんてそれほど合理的なものではない、とは重々承知。しかしまあ、ワールドカップが始まれば、あっちの都市にもこっちの都市にも溜まり場で国内残留組のサポーターが、集団を作って「わー、わー、わー」だ。不思議な光景ではあろう。かく言う僕も、顔にペイントしてその集団に加わる可能性が大だ。だからよけいに思う、この集団狂騒は何なのだ、と。中には、集団で声援してはじめて、声援の一部が届くのだ、という教祖まがいのことを考える奴もいたりして……。テレビ、電波、同時中継……このような科学技術の粋を集めた状況の中に堂々と入りこみ、大手を振るう、人間の合理的とは言えない心情、欲求……。それとも、合理的とは言えない人間の心情や欲求のために、人間は科学や科学技術を発達させた、と言う方が真相に近いのだろうか?
 そうだよなあ。現代人と言ったって、そう大したことはないよなぁ。誰も聴いていないのに、聴いていると信じて、おかしな歌声を張りあげるカラオケのオッサン。わが子のためと水ごりに精出す中江藤樹のおっかさん。豊穣を願い、効果があると信じて、土偶を拝む縄文人。片想いの恋。「無意味だ」と一刀両断できないから、それだけに妙にして変だ。これ、長く漬けてきた僕の考えの漬物。漬物も旅館の料理の一部で、吟味する。今回はお料理として出すわけでないが、くれぐれもと思うことは、「ムカーシの人さぁ、妙なことを信じてっからって、馬鹿にぁさぁ、できないべ」ということだ。

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