言語の魅力、映像の魅力

木梨 由利

プライドと偏見

 1月末、劇場でイギリス映画『プライドと偏見』を見た。映画は好きで、例えば過去1年間で10本程度は観たと思う。一緒に行く家族の好みもあって、ジャンルは文芸作品を中心に、アニメから歴史もの等までさまざまである。英米の文学作品の映画化なら、たとえ一人ででも出かけていく。今回は、大好きなジェイン・オースティン(Jane Austen)のPride and Prejudice(1813)が原作ということで、期待は特に大きかった。

 さて、感想はというと、原作を知らない家族にはまずまず好評だった。聞くところによると、この映画がきっかけで、大学で英文学を専攻することを決めたお嬢さんもいるらしい。確かに、イギリス各地にある壮大な邸宅を何件か借りて撮影されたという映像はしっとりと美しく、いかにも丁寧に作られた作品という感じがする。主人公エリザベス・ベネットを演じるキーラ・ナイトレイも、知的で溌剌として、まぁこんな感じかな、と納得する。

 ただ、結婚相手となるダーシーとの階級差を強調するためか、ベネット家の生活レベルが原作よりもかなり低く描かれているようなのが気にかかる。そして、何よりも、ダーシー役の男優(マシュー・マクファディン)が、優男(やさおとこ)過ぎるというか、線が細すぎるようで、今一つしっくりこない。ダーシーの容姿については原作でも「背が高く立派な体格、整った目鼻立ち、上品な物腰(fine, tall person, handsome features, noble mien)」と表現されている以外に特に具体的な描写があるわけではないが「自尊心が高く、一見尊大で傲慢だが、実は単なる社交下手。妹や親友からは絶対的な信頼を得、使用人からは敬愛される、地位も財産もある青年地主。エリザベスの窮状を知ると、密かに、だが迅速に解決に当たる行動力も持つ人物」ということが、次第に明らかにされてくる。言葉が持つ力は不思議なもので、たとえ容姿についての具体的な描写がなくても、その人柄や言動を描写する表現が加わった時、外見のイメージもなんとなく視覚化できるほどになる。ところが、そのようにして視覚化されたイメージが、映像による直接的なイメージと不幸にも異なる時に、読者は違和感を覚えてしまうのである。もちろん、個々の読者が描くイメージは、決して同じではないにしても、往々にして言葉が映像に劣らず強烈な視覚的イメージを喚起し得るということは否めないであろう。(ついでに言えば、原作のダーシーのイメージには、BBC制作の『高慢と偏見』(1995)に出演したコリン・ファースのイメージの方がずっと近いのではなかろうか。)

『高慢と偏見』 一つ一つの言葉の力というか、言葉そのものの五感に訴えるような美しさを私が初めて意識したのは、高校で『ヘンリー・ライクロフトの私記(The Private Papers of Henry Ryecroft)』(1903)というエッセイ風の作品を読んだ時であった。著者ジョージ・ギッシング(George Gissing)の自伝的事実とフィクションが織り交ぜられたようなこの作品は、若い頃生きるために苦闘した主人公が、今は静かな田舎に引退して、時には過去を振り返りつつも、穏やかに日々を過ごす様を描くだけで、何一つドラマチックな事件が起きるわけではない。けれども、「うっとりさせるような芳香」(intoxicating fragrance)を放つ大地、「荒涼とした浜辺のあたりで囁いている夕べの微風(a breeze of evening whisper[ing] about the forsaken shore)」、「ニレの並木道(elm avenue)」にくまなく敷き詰められた「淡い金色の落ち葉のじゅうたん(fallen leaves—a carpet of pale gold)」、「豊麗この上ない黄金色に輝く([shining] in the richest aureate hue)」「主にカラマツが植えられた植林地(a plantation, mostly of larches)」、そしてその中にあって「血のような赤色を散らして (a splash of blood-red)」「今しも秋の栄光のさなかにある(in its moment of autumnal glory)」「ブナの若木(a young beech)」などの表現に行き当たると、自分もまたイギリスの豊かな自然の中にあるような喜びに浸り、一つ一つの言葉が内包するイメージの美しさに陶酔したものであった。念願叶って、初めてイギリスの地を踏むことになった時、最も楽しみだったのは、言葉から描いた想像の世界が、現実にはどのように見えるのかを確認することであったと言っても過言ではない。

 とは言え、先に述べたように映画はむしろ好きであるし、直接的な映像の魅力を完全に否定するのではもちろんない。先に映画に魅了され、その後もとになった文学作品も大いに楽しんだという経験も少なくはない。『風と共に去りぬ (Gone with the Wind) 』(1939)はその典型的な例である。もっとも、もし小説が先であったなら、「レット・バトラー役は絶対クラーク・ゲーブルでなければ」などと思ったかどうか、それは私自身にもわからない。

 同様の例をもう1例挙げるならば、何と言っても、高校時代に観たロシア(旧ソ連)版の『戦争と平和』(1962~1966年制作)である。国家の総力をあげて制作された大作であり、投入された資金は、当時日本で1年間に制作された映画総数約500本分の制作費の合計(約12億円)にほぼ匹敵すると言われる。華やかな舞踏会や、壮絶で悲惨な戦闘の場面もさることながら、人間の背丈の何倍もあるほどに鬱蒼と茂った木々の間の小道を主人公たちが語りながら歩く風景や、幾層にも重なりあった木の葉が日の光に透けて、実にさまざまな色合いの緑を作り出しているようなさりげない場面から、今なお忘れられないほどの鮮烈な印象を受け、ロシアという国の広大さや自然の美しさに目を開かれる思いであった。それまでにもロシア文学はいくらか読んでいたけれども(もちろん翻訳で)、思想も表現も難解で、延々と戦闘場面の描写が続く長大な小説を一気に読み切ったのは、あの映画に後押しされてのことだった、と今にして思う。

主人公テス 映画の中には、また、原作の表現の巧みさに改めて気づかせてくれるものもある。トマス・ハーディ(Thomas Hardy)の『ダーバヴィル家のテス(Tess of the d’Urbervilles)』(1891)は、当時の社会的状況や偶然のできごとなどさまざまな要因が複雑に絡み合って、主人公テスが陥る悲劇を描いている大作で、議論すべき問題が多々あるのだが、ある時、特にテスの美貌について考えてみようと思ったのは、ロマン・ポランスキー監督による映画『テス(Tess)』(1979) を鑑賞する機会を得たからであった。テスを演じる女優ナスターシャ・キンスキーの美貌を通して観客の視覚に訴えてくるテスの美しさは、原作ではどのように描かれているのだろうか。それを検証した時、作者ハーディの偉大さがまた少しわかったような気がしたものである。

 このように、時には映像を通して、時には言語によって、世界の文学に親しむことは、私にとって手軽でしかも大きな楽しみの一つなのである。もともと言語で表現されていたものを映像に置き換えること自体に無理があると感じられることももちろんあるが、言語では表現困難な世界に誘われる(いざなわれる)ことも少なくはない。今後とも、時間が許す限り、映像と言語の「いいとこどり」を楽しみたいと思うのである。

※本文中の写真は、クリックすると拡大できます。


Comments are closed.