多義図形と「悪人」

槻木 裕

 3月にある会で、宗教-仏教について講話をしなければならないことがあって、70人ほどの人たちを相手に1時間ほど話をした。1時間だから何ほども話せないのであるが、仏教とキリスト教の違いをいくつか指摘し、仏とわれわれ日常人との対比、「救う、救われる」という関係を中心に、いま考えていること、思っていることの一端を述べた。
 話は「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」に当然及んだ。この言は親鸞(1173~1262)のものとされているが、師の法然(1133~1212)にすでに似たような言があるらしい。それはそれとして、これを初めて聞く人は、まずはそのパラドキシカルな調子に驚くのが常のようだ。でも、もう一方に仏(の理念)を置いてみさえすれば、パラドクスでも何でもないことがすぐわかる。よく使われる説明は、「親(=仏)はできのいい子(=善人)よりも、できの悪い子(=悪人)を先に、十分に気にかける」である。
 この比喩がまったく妥当なものかどうかはともかく、その前に、たいていの人は自分のことを「それなりに善人だ」と固く思っているから、こういう信念を揺さぶらさないと、自分が「悪人だ」と少しも実感できないし、また、そうであれば、宗教も何もあったものでない。そこで、心理学で知覚の錯視現象によく使用される幾つかの絵を使った。

 これらは見れば見るほど、不思議な絵だ。ウサギだと思うと、鳥にも見えてくる。若い女性の横顔と思っていると、急に老婆に変転する。みそは別のものを見ているというのでなく、同じ絵を見ているところにあるわけだ。僕はこれらを「反転図形」と言っていたが、専門的には「あいまい図形・多義図形 ambiguous figure」とも言うらしい。
 「善・悪」とは相対的なことばでもある。人殺しをした人と比較すれば、そんなことはしていない自分は、まあまあ善人ということになろう。しかし無私の博愛的な行為をすることに生きる仏(の理念)と比較すれば、自分を善人だとはとても言い切れまい。つまり、自己が一端「老婆」に見えてしまうと、無理をして「私は若い貴婦人だ/善人だ」と思おうと思っても、「老婆だ/悪人だ」という見え方がちらついて、「私は若い貴婦人だ/善人だ」と自信をもって言えなくなってしまうということなのだ。少し反省心の強い人ならば、「善人/悪人」が、落ち着きもなくちらつく自分を、すなわち、欲目や利己心から、そんな自己評価を気にしてやまない自分を、断固として「悪人」とするにちがいない。「反省することは善ではないのか?」という思いなど、その圧倒的な見え方の前には、微塵に消し飛ぶ。
 宗教の本質はここにある。仏(の理念)に自己が向き合うことから始まって、そこに終わる。蛇足ながら言えば、ここには呪術だの、まじないだの、超能力、霊力などの怪しげなものがはいり込む余地がない。もしそんなものが入っていたら、それはニセモノである証と考えたほうがいいだろう。

多義図形と人間科学

 さて、講話は、自分で言うのもなんだが、割合に好評であったと思う。実は、この多義図形、僕はたとえば「文学部の勉強って、何?」という話を高校生相手にするときにも、しばしば使わせてもらっている。ある作家がいる。ある作品がある。社会がある。みな、基本的には同一のものを見ているわけだ。たとえば社会を取りあげようか。「情報化社会」、「国際化した社会」……だが、確実に違った見え方も浮かんでくるはずだ。「自分の人間性を痛めつけられ、自分でもそれを傷つけなければ、うまく生きていくことがむずかしい社会」と見える人もいるはずなのだ。人間科学の勉強のおもしろさはここにあるだろう。自分なりの見方を大切にしていくのだから、主体性が失われない。主体性がまったく関わらないただの客観学など、やるだけ無駄だ。紫式部の顔に黒子(ほくろ)がいくつあったか、そんなことに興味をもって、一生、それを探求するような奴は、(変態になりがちな学者の中でも)変態中の変態だろう。それを「虚学」と言う。「実学」をもっと広くとらなければならない。しかし他方で、現代と、そしてそこに生きる自己との関わりを示唆できない学問は、「虚学」のそしりを免れないだろう。

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