鈴木大拙と英語

川畑 松晴

鈴木大拙

 鈴木大拙という名前を聞いたことがあるだろうか。最近、地元の北國新聞が彼の没後40年を記念した企画「禅ZEN 鈴木大拙没後40年」を連載しているので、それで知った人もいるかもしれない。(これは、アメリカやヨーロッパで直接取材も行っているなかなか意欲的な記事である。バックナンバーも含めて、ぜひ読んでみてほしい。)

空前絶後の「世界の禅者」
 この見出しはあながち誇張ではない。「不立文字 (ふりゅうもんじ)No dependence on words and letters (言葉や文字で伝えることはできない)」と称し、「悟り体験(experiencing satori-awakening)」によってのみ感得されるという禅は、大拙によって初めて本格的に西洋に紹介された。英語という言葉を通じて。
 「世界の禅者」鈴木大拙は、明治3(1870)年、金沢市本多町の生まれ。彼が、本格的に世界に向けて、禅、そして日本(と東洋)の精神について講演行脚をするようになったのは、太平洋戦争で日本が無条件降伏をしてからである。時に75歳。現在の長寿社会でもとっくに定年期を過ぎている。それまでも仏教や禅に関する訳書や著作を出版し、アメリカ在住12年の経歴はあったが、敗戦後の彼の世界へ向けての活動は目覚ましい。とくに80歳からは連続9年、アメリカやヨーロッパの大学および国際会議に直接足を運び、講演活動を続けている。仏教、とくに禅の世界的な広がりを促がした功績において、大拙の右に出る者はいまい。また、これから出ることもないのではないか。95歳という高齢で静かな死を迎える直前まで「達者」に講演や著作を続けた大拙、そして、禅の本場である日本に生まれながら、「達者」な英語で多くの著作・講演を続けた大拙は、まさに稀有の「行動する禅学者」と言えよう。筆者は、二つの「達者」のどちらにも興味を惹かれるが、本論は後者の英語に絞って紹介したい。

英語教師としての大拙
 貞太郎(大拙は禅の修業者として20代後半に与えられた名称=居士)は英語教師としてまず出発した。18歳の時に奥能登の飯田尋常小学校(現在の珠洲市飯田町)高等科の英語助手を約半年間つとめ、ついで翌年には美川尋常小学校(現在の白山市美川町)高等科訓導(現在の教諭)になっている。美川には丸2年いたようである。18歳から3年間本県で英語の教師をしていたことになるが、明治3年に生まれた彼は、どのような教育を受け、どのように学んだのであろうか。

明治期の英語
 意外な事実を披露しよう。この時期の日本人にはすばらしい英語の使い手が輩出している。福沢諭吉、新渡戸稲造、岡倉天心、野口英世、夏目漱石等など。お札の顔写真で馴染みの人物が多い。本県出身者では、高峰譲吉((医学・薬学者)、木村栄(天文学者)が自然科学者ではあるが、英語を苦にせず世界的名声を獲得した。哲学者、西田幾多郎も金沢の旧制第四高等学校で一時期ドイツ語を教えている。彼らはどのようにして、英語やドイツ語を習得したのだろうか。

独学に近い英語学習
 それぞれの素質、地域の教育事情の違いはあろうが、貞太郎の場合は独学に近いといわれる。彼は明治9年、5歳半で小学校に入学した。そして、12歳で石川県専門学校付属初等中等学校に入学し、この専門学校が改称した旧制第四高等学校は1年半の在籍で中退している。これが、18歳の年である。この間に英語の基礎を習得しているはずだが、どのように教えられそして学んだか、詳しいことは分かっていない。明治新政府の近代化政策の下、英語は西洋文明を摂取する重要な科目とみなされたので、小学校の高学年で少しは取り入れられ、中等学校では専門科目の一部も英語で教えたようである。が、なにしろ明治初期の、地方都市金沢のことである。加賀百万石の威光の下「天下の書府」といわれた金沢には「お雇い外国人」教師も数名いたが、貞太郎が彼等から学校や塾で英語の特別な手ほどきを受けたという記録は残っていない。ただ、彼は町医者の家に4人兄弟の末弟として生まれ、教育熱心な父の下で幼い頃から兄たちを真似て暗誦をしたり、文字を読んだり(もちろん日本語)したそうである。また、父の書架にはオランダ語や英語の書物もあったらしい。想像するに、未熟な日本人英語教師から習ったわずかの文法や語彙の知識と、粗末な辞書を頼りに、貴重な英書を一人であるいは仲間と読み続けたのだろうか。 鋭く、豊かな想像/創造力なしでは不可能な勉学である。

東京でも英語は独習
 とにかく、父の死後、家が没落し、わずかの授業料が払えないため18歳で旧制高校を中途退学し、すぐ上述のように英語教師となった。その後、学問への抑えがたい情熱から上京し、東京専門学校(早稲田大学の前身)、東京帝国大学に入学するが、いずれも半年間、1年間でやめている。学校で学ぶよりも、臨済宗の本山・円覚寺(鎌倉)での参禅に没頭したためである。二つの学校で高名な教師から英語を習ったが、いずれもあまり感銘を受けなかったというエピソードが伝わっている。一方で、この時期に、アメリカの世界宗教会議で講演する師・釈宗演の日本語原稿の英訳をまかされたり、米国人ポール・ケーラスの著作を日本語に訳して出版したりしている。つまり、貞太郎の英語は上京する前に、ほとんど、いや少なくともその基礎は出来上がっていたことになる。ポール・ケーラスの翻訳がきっかけとなり、彼はは27歳で渡米しこの恩人と共に12年間宗教雑誌編集・出版の仕事をすることになる。帰国後はアメリカ人女性と結婚し、母語話者並に達した英語を駆使して「世界の禅者」としての道を自ら切り開くが、再度強調したいのは、「大拙の英語力は間違いなく金沢で基礎が築かれた、しかも(現時点から見るならば)自学自習に近い方法で鍛えられた」という点である。

辞書を暗記した大拙
 大拙に限らず、明治期の(いや時代を問わず)傑出した人物に共通の特徴は「強い動機」である。一種の「立身出世欲」と言えばそうであるが、とにかく学問や事業欲が旺盛であった。美川時代、「英語のアンカ」として親しまれていた鈴木先生は、「辞書を全部暗記した」というエピソードを地元に残している。この頃の彼はまだ、禅や哲学より、英語で身を立てたいと考えていたらしい。

私たちへの教訓
 私たちは辞書を暗記する必要はない。当時の辞書ならば基本的な語彙に限られていただろうから、その必要はあったかもしれないが。それにしても、基本は徹底して理解し、モノにしなければならない。なによりも、どんなに教育環境が整ったとしても、肝心なのは学習者自身の心構えである。大拙にかぎらず、貧しい時代の先人が教えてくれるのはそれである。
 大拙は色紙に揮毫(きごう)を求められると、よく、“To do good is my religion, The world is my home.” と筆をとって典麗な英語で書いたそうである。「善をなすのがわが宗教であり、世界がわが家である」という意味であるが、英語と世界との関係は、大拙の時代より格段に広がっている。
 諸君! この恵まれた時代、この良き環境の中で世界共通語を学べる幸せをかみ締め、大拙の爪の垢でも煎じて飲もうではありませんか。 私自身も、老い呆けてはいられません。彼の両面の「達者」に少しで近づけるよう頑張りたいものです。

 注: 大拙の肉声に(ただしテープで)接することができます。彼の講演テープが一部保存されています。英語テープもあります。日本語の場合も英語の場合も変わらぬ調子で、適切な言葉を捜し探し訥々と語る彼の講演は不思議な魅力であなたに迫ります。また、禅や大乗仏教に関する英語の著作物を直接読むのもchallengingな課題です。関心を持った学生は研究室までどうぞ!

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