脳の持つ能力を信じて【リレーエッセイ:書評】

中島 彰史

『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶の仕組みと鍛え方』 池谷裕二著 2001年 講談社

 私は弓道部の部長をしています。大会の成績を大会後少しの間は記憶していますが、時を過ぎると細かいところは忘れてしまいます。
 ところが、監督をされている先生は、誰が何中したかとか、誰がその試合の大前(団体戦で最初に引く人のこと)だったか、といった細かな事柄をかなり前の大会のものでも記憶されています。いつも感心させられます。

 『記憶力を強くする』という本書は、「脳科学から見た記憶」、「記憶の司令塔「海馬」」、「脳が記憶できるわけ」「科学的に記憶力を鍛えよう」といった内容を扱っていますが、興味を持った項目について述べます。


【神経細胞の数】
 脳の中の神経細胞は生まれた時が最も多く、年齢を重ねるにしたがってどんどん減っていくが、記憶を司る海馬の中の或る細胞(顆粒細胞、と言います)は増殖するという特殊な能力があるということ、そして、海馬は2歳から3歳くらいでほぼ完全な形になる(これが幼児の頃の思い出がないことの原因になっている)ということ。そして、顆粒細胞の増殖に関する研究結果が提示されていて、例えば、軟らかいものばかり食べていると顆粒細胞の増殖が減ってしまう、一人孤独で過ごすより、社会に出て積極的に他人と交わった方がより増殖しやすい、などです。
 脳の中の細胞は減る一方だと思っていたので、増殖する細胞があるということを知って驚き、また、記憶という人間らしさが最も反映される能力にかかわる細胞にのみ増殖する性質があるとは、何とも不思議であり、嬉しくもあります。

【海馬と記憶】
海馬は記憶の一時的な保管場所のようなもので、そこで必要な記憶と必要でない記憶とがふるいにかけられ、必要な記憶なら側頭葉に送られ、記憶が保存される、そして、その一時的な保管時間が長くて一か月だということです。つまり、一か月が記憶に残るかどうかの決め手だということです。この一か月の間に側頭葉などの大脳皮質に新しい神経回路を確実に作ることができたら、長い間安定的に保持されるので、その間に復習することが物事の習得に必要になります。
 私自身、繰り返し学習するという意識がなくなってきている気がします。いろんな論文を読みますが、その時は覚えたつもりでいるけれど、また別の論文を読んで異なる思考を積み重ねていくと、覚えていたと思っていた内容の細かい部分が思い出せず、論文をもう一度読み返さなければならないという経験がよくあります。そして、その時は、寄る年波で記憶力が弱くなってきたな、と言って自分を慰めることにしていたのですが、それは見当違いも甚だしいということに今更ながらに気付かされました。根気がなくなってきたことを年齢のせいにしてしまい、私自身の気持ちのありようが大きな問題だったのです。

【脳の『性能』】
 脳というものは、コンピュータと違って、使えば使うほどその性能がアップするという不思議な記憶装置だということです。つまり、記憶には相乗効果があるということです。何かを記憶した場合、その理解の仕方も同時に記憶する、そして、理解の仕方というのは、記憶の中で最も原始的な記憶として分類され、覚えることも思い出すことも無意識のうちになされ、最も忘れにくいものとされています。事象そのものを理解することは意識的に行われますが、この理解の仕方というものは無意識のうちに働くものなので、知らず知らずに絶大な威力を発揮します。そして、ある事柄の理解の仕方が脳に保存されていると別の事柄の記憶を無意識のうちに助けたり、同時に、その理解の仕方も自動的に記憶されたりします。更には、すでに記憶していた事柄の理解をさらに深めてくれるというように、何かを身に付けるということは累積的にその効果が現れるということを意味します。
 確かに、学習の効果がなかなか現れない、実感できないが、ある時突然実感できたといった経験があります。思った通りに事が運ばない、努力がなかなか報われないといったことはよくありますが、その場合、時にはこういうこともあるさ、とか、誰もが上手くいくわけではないとか考えて、諦めてしまってはいけないということです。努力を継続すればするだけ脳にはその軌跡が蓄積されていくので、実を結び日が必ず来るということを信じて、実践していく気持ちにさせてくれます。言い換えると、簡単に身に付くものは、身に付いたと誤解していたり、すぐ忘れたりするものなので、あてにしてはいけないし、そこで納得し、努力を怠ってしまってはいけないとも言えます。


 教員をしていると、学生の記憶をうまくコントロールできたら(勿論、学生にとって望ましい記憶、という意味ですが)、と思う時があります。そんなことは無理であることは分かりきったことなのですが、学生にとって少しでも記憶に残りやすいような授業を心がけようとあれこれ考えています。そういった意味で、自分の専門とは直接関係ない分野の本書のような本を取り上げてみました。

Comments are closed.