食文化から見るイギリス 【リレーエッセイ:書評】

イギリスはおいしい

坂東 貴夫

『イギリスはおいしい』 林望著 1995年 文春文庫

 もう10年以上も前の話になりますが、実は半年間イギリスに語学留学していたことがありまして、、、
 当時は何かツライこともあったかも知れませんが、今振り返ると、この半年間は不思議なくらい楽しい思い出に包まれているのです。

 出不精の私が、留学したいと思い立ったことがそもそも不思議なのですが、なぜか当時は、「今の生活を続けて、将来満足するのかなぁ」とか「頑張れば色々出来ると思うんだよなぁ」といった漠然とした不安や期待を強く抱いていたのでした。今、冷静に考えると若気の至りなのですが、したいことをしないで時間が過ぎていくことをもの凄くもったいないと感じた時期だったのでしょう。他の人が見れば「衝動的行動」と思うかも知れません。

 さて、それで、その留学前や留学中に読んでいたのが、この『イギリスはおいしい』という逆説的なタイトルを持つ本です。今でこそ、あのミシュランガイドに登場するようなレストランがロンドンに次々と登場し、「イギリス=料理のマズイ国」という世界の常識が崩れ始めているなどと言われることもありますが、それはごく一部の外食店に限った話に違いないと思ってしまうのは、私は留学中に、この本に書いてあることを何度も体験しているからでしょう。

 この本の著者である林望先生はイギリスをこよなく愛する人物ではありますが、料理に関しては、「イギリス人は塩気についての感覚が鈍い」ことや、歯触りや舌触りに関係するような「野菜のテクスチュアに無頓着」であることを認めていますし、「たしかに一般的には「うーむ、おいしかったなぁ」という実感に至らないのが普通である」とも書いています。例えば、訪れたホテルの食事については以下の通りです。

 ディナーはローストポークをメインディッシュとするコース料理であったが、そのコンソメスープは、醤油でも入れたのではないかと思うように真っ黒な色で、しかも信じ難く塩辛いのであった一方、ローストポークには全く味がなく、やはりテーブルの塩を振りかけないと食べられないのだった。

 また、食材の歯ざわりをダメにしてしまう原因として、茹で過ぎる独特の調理法を挙げています。

 「野菜を茹でる」というのが、多くのイギリス人が素朴に信奉している料理の方法で、それも、日本人がさやいんげんを青くしゃっきりと茹でる、というようなのとは本質的に違い、どの野菜も、延々と、呆れるほど長い時間をかけて(時には重層入りの湯で)茹でる。その結果、たとえばさやいんげんならば、色はほとんど薄茶色に変じ、かたちもぐずぐずに崩れてしまう。

 更に、留学前の私を一番不安にしたのが、著者の知り合いであるY先生の言葉、

 「もう、わたしゃ飽き飽きしました。だってネ、毎日毎日おなじものばかりですよ、ベークドビーンズとソーセージみたいなもの、それにじゃがいも!こればかりだもの」

 挿絵のキャプションにも、サラッと同じようなことが書いてあります。

 近所にジェリーという金髪の少女が住んでいた。昼食のあと遊びに来て、ソーセージとベークドビーンズを食べたと言った。夕食のあと、彼女は再び遊びにやって来て、夕食にもやっぱりソーセージとベークドビーンズを食べたと言った。

 これらのエピソードは、イギリス人が経営するお店に入った方やホームステイをされた方には、よくある体験談だと思います。それに、観光用のガイドブックには、「一般家庭の食事は質素」とかよく書いてありますから、決して珍しい話ではないのでしょう。しかし、決して「質素」という言葉では片付けられない食文化が存在することを、これらの箇所から感じ取ることができます。ホームステイする予定だった私は、自分で勝手に、味のしない茹ですぎたジャガイモが毎食毎食ステイ先で供される状況を想像しては、ひとり心配していたのでした。

 もちろん百聞は一見にしかずで、実際の留学生活で、おいしい料理にも出会いましたし、この本には書かれていないようなマズイ料理(リンゴとクリームと生地のうち、何故か生地だけがメチャクチャ甘いアップルパイとか)にも出会いました。しかし、この本を読んでいたからこそ、マズイと書かれていた料理を実際に食べてみた時や、手抜き料理と書かれていた缶詰から出しただけのビーンズが何食か連続したというような時には、「本当だぁ」とヘンに感動して、あまり悲嘆することなく過ごせたのでした。(留学終盤には、ステイ先のホストマザーから「あなたはいつも私の料理を全部食べてくれる」とお褒めの言葉をいただきました。)

 さて、ここまでイギリス料理がマズイとかダメだとかいう箇所しか抜粋していませんが、タイトルが示すように、本の全体的な内容は、イギリスのおいしい食事や食文化が中心です。「料理がマズイのにおいしい食事とは何事か」と思われるかもしれませんが、著者は以下のように食べ物の素材の良さを強調しています。

 「料理」ではなくて、その「素材」について言うならば、日本とくらべてもどことくらべてもおいしいものがイギリスには少なからずある。そうして、重要なことは、その「おいしさ」が、品種改良のような努力の結果ではなく、むしろその逆であることである。もうわれわれの国の農水産物が忘れてしまった(あるいは故意に捨て去ってしまった)何かが、たしかにこの国には生きている。

 つまり、マズイ料理の話はこの本の序章であり、イギリスで提供される料理においてもほんの序章に過ぎません。確かに素朴な調理法の為に生じる問題もあるのですが、例えば、丸かじりで食べるコックス(リンゴ)や揚げるだけのフィッシュ・アンド・チップスのような素材の良さを感じられる食事にこそ、イギリス料理の真髄があります。この本を読んで、そのような料理を知るとともに、その背景にある文化に触れることができたことが、留学前の私にはとても意義深いものでした。

 イギリスへの旅行や留学を計画している方には、お薦めの一冊です。

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